翻訳と日々

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クリスマスの男の子 / フョードル・ソログープ

 プストロスリョーフはやっとひとりきりになった。
 なんという疲れだろう!丸一日人を迎えて話をした。熱い、刺激的な話題だ。仕事が忙しくせわしなく、かかりきりになってしまった。
 かかりきりになったせいで、今ほんの少し休んだら、急にそのことも考えたくなくなった。 疲労があらゆる感情をベトベトするベールで包み込んでいた。目は何も見ようとはしなかった。
 ソファーに寝ころんだ。物書き机の上で飲みかけの紅茶のカップが冷えていた。青白く、やつれた顔が傾いた。暗紅色の枕の上では余計に青白く痩けて見えた。
 遠いシベリアのことが浮かんできた。彼方での強制的な暮らし。猛烈な極寒で、地面は夏でも溶けきらない。厳しい流刑地での仲間たち。長い、長い夜。そしてあまりに暗く、あまりに寒い!
 やすらぎと、心地よさと、家族が恋しくなった。片言で子供が話す声が聞こえるアパート、独り身にはあまりに大きく、あまりに贅沢だ、――それからおどおどしたピアノの練習、――そして不意の笑い声。
 考えた。「おれは不満だとでも言うのか?ほかのやつらに働かせればいい」
 そして微笑んだ。もちろん、ほかのやつらにやらせよう。
 そしてすぐに気づいた、それはふとした思いつきだ。
 いいや、もはや仕事から離れることはできないんだ……
 またひどい眠気だ。
 そして突然軽やかな足音がした。
 身震いがした。目を開けた。
 誰もいなかった。
 おかしなことだが、――このごろプストロスリョーフは疲れて休むひと時に一度ならず、自分一人じゃないような気がしていた。だれかが軽い足どりで歩く音が近くの床からしてきて、――まるで誰か小さい子がこっそりとそばを通りすぎたみたいだった、用心深く、裸足で。小さくてようやくソファーに頭が届くかどうかぐらい。近づいてきて、じっと見つめて、この世のものと思えぬほど美しい顔を上げていた。聞き耳を立てていた。なにやら話している声は小さいながら不思議なほどはっきりと聞こえた。どこかへ呼んでいた。
 けれど目を開けるやいなや――不思議な来訪者は軽やかな足音とともに姿を消すのだった。そしてもうその子はいなくなったことが感じられた。
 はじめ、プストロスリョーフはやって来ていることを気にもしなかった。滅入って疲れている時はいろいろなことが夢に出てきたり思いついたりするものだ。
 けれどこうしてもう数日間も続くと、小さなお客さんがプストロスリョーフの気にかかるようになった。
 前は時おりやって来るだけだった。今では――毎晩。そしてプストロスリョーフはその子を待つようになった。
 ぼんやりと、死んだような、動きのない電気ランプの明かりの中をやってきた、軽やかに、小さな子が。そしてその子の足音は次第にはっきり聞こえるようになって、――まるでもう大きくなったみたいに、堂々として大胆だった。
 以前は爪先立ちで忍び寄ってきた、――ところが目を開けたなら――その子が小刻みな足取りで走って逃げてしまう様子は、まるで驚いた子ネズミのようで、どこに逃げ込んだか暴くことはできなかった。
 今ではやって来るときも悠々としていて、聞こえてくるのは、軽やかに、落ち着きはらってしっかりと寄木細工の床を鳴らす彼の足音だった。そしてプストロスリョーフはまだ素早く眼を開ける覚悟ができていなかった。その、夜の子が急ぎもせずに去っていくとき、プストロスリョーフはついにその子がどこに行ったのか突き止めた。
 それは壁だった。ぼうっと見ている分にはきわめてありふれたものだ。黒い額縁に入ったモナ・リザの版画が掛かる少しななめ下のあたり。二つの椅子のあいだ。壁紙の柄は、見たところ、特に特徴があるわけでもない。しかし何やら奇妙で意味ありげな趣きがその緑がかった風変わりな色に備わっていた。
 そしてプストロスリョーフが長いこと模様に見入っていると、不意に壁のその場所が何かで縁取られたような気がし出して、その後ろには秘密の扉が隠れているようにみえた。
 座って、眼を閉じた。机上のランプが少し離れたところにあるほっそりとした顔に動かぬ光の斑を落としていた。軽やかな足音が聞こえてきた。小さな訪問客が近づいてきて、じっと見つめながら何かを待っていた。そして見知らぬ訪問者が待っているあいだ、どこか不気味で、気が沈み、なにかを強いられているような感じがした。
 『何か言うかなりするなりしないと』と、プストロスリョーフは思った。
 少しだけうっすらと目を開けてみると――不気味で甘美な恐怖に息が止まった。目の前には10歳ぐらいの男の子が立っていて、全身は真っ白で、か細く、光を放っていた。青白い、まさに死人のような顔には、黒い、恐ろしいほど底の知れない瞳が瞬いていた。不思議な形をした、真っ白な服は、細く長い首をあらわにし、ひざ上までのぞくすらりと細い足があった。そして全身にはやすらぎが漂いまさに死人のようだったが、ただ青白い顔にある黒い瞳は生気を帯びて、執拗に問いかけていた。
 一瞬、まぼろしがゆっくりになると――姿を消した。プストロスリョーフは眼を開けて、すぐさま起き上がり、少年の方へ進み、手を伸ばした、――しかし少年はもういなかった。
 「坊や!君は誰なんだい?どこにいるんだい?」プストロスリョーフは叫んだ。
 静まり返った。期待は静寂の中に溶けていった。
 そして突然、――小さな、甘くかん高い笑い声が響き渡った。不安定な静寂の中に響き渡り、――そして静まりかえった。
 そしてプストロスリョーフは急に自分ひとりぼっちなんだと感じた。
 ひとりぼっち!今まで一度たりともこれほどの重みを伴ってこのかくも恐ろしい、かくも偉大で、かくも人間の理解を超えた言葉が彼に迫ってきたことはなかった。
 孤独とは、甘美で比類なきものであり、偉大かつ尊大なる魂の偉大な祝日であり、問いの尽きせぬ人間の偉大な悩みであるのだ!
 そしてこの瞬間にプストロスリョーフが痛感したのは、自分は単に未知のことを問うている人間に過ぎないということだった。憂鬱が不思議と押し寄せてきたとき彼は壁のその場所に近寄った、そこには冷たく謎めいた微笑みのジョコンダの下に秘密の扉が隠されていた、――そして奇妙な言葉がまるでひとりでにのように彼の口をついて出てきた。
 「おまえは人間になりたいのかい?どうしてだい?この憐れむべき存在のなにがいいんだい?」
 そして小さな声の答えはほとんど聞こえないぐらいだったが、不思議と理解できた。
 「なりたい」
 『神経が弱って、乱れているんだ、――翌朝プストロスリョーフは考えた。――この残酷で恐ろしい街から去らなくては』
 けれど彼が着替えているとき、北国の明け方のぼんやりとした弱い光の中で彼のそばを静かで軽やかな足取りで白い、全身真っ白のおとなしい子供がすり抜けて、小さな声で古くさく、奇妙なほどに世俗的で、胸に突き刺さる言葉を発した。
 「飢えた人たち、子どもたち、小さな死体」
 「なんだって?」怯えたプストロスリョーフは聞き返した。
 そして静寂のなかで聞こえてきたのはさらにいっそう単純で世俗的な言葉だった。
 「10コペイカのミルク」

 少しのあいだその恐ろしい姿見せて、姿をあらわすや否や極寒の一日はもう沈んでいった。ネフスキー大通りに街灯が灯りはじめた。こっそりと。だれもそれが点灯するところを見てはいなかった。そしてその光は明るく落ち着きがなかった。
 騒がしい二つの通りの横断歩道で、すこしのあいだ混み合う馬車が通り過ぎるまで立っていると、プストロスリョーフはデカダン詩人のプリクローンスキーを見つけた。ゆっくりと、おぼつかない足取りでプリクローンスキーはプストロスリョーフに近寄ると黙って握手した。
 プストロスリョーフはプリクローンスキーが嫌いだった。彼のことはペテン師だと思っていた。そのことをあちこちで触れて回った。プリクローンスキーのところまで、あきらかに、プストロスリョーフのぞんざいな返事が届いていた。いつだったか、誰も彼もが顔を出し、誰も彼もが退屈する夕べの会で一度会ったとき、プリクローンスキーはプストロスリョーフに近寄ってきて、何の前置きもなしに話し出したが、その内容は自分の習慣のことや、極めて逆説的ではあるが、あらゆる作家はふた通りに分類できるということだった。ディレッタントとペテン師だ。プストロスリョーフはきまりが悪かった。この時から、プリクローンスキーと会うときは、気まずい気分がプストロスリョーフを包み込むのだった。奇妙で、酔っ払って楽しげなプリクローンスキーの据わったはプストロスリョーフに憂鬱をもたらすのだった。
 しかし今はプストロスリョーフはこの邂逅が嬉しかった。
 「あなたのご専門の事件なんですがね」そう言って彼は、皮肉っぽく話そうとしていたが不意に忌々しくもそれがうまくいかないことを予感していた。
 そして白い男の子の話をした。話が拍子抜けに終わってしまうのが忌々しかった。
 「幽霊のすることが奇妙なんです」彼は言った。「死後の世界の話の代わりに、なにやら子供じみた、まったくもって現世的なおしゃべりをするんですよ」
 プリクローンスキーの最後まで落ち着きはらって、まるでごくごくありふれた話でも聞いているかのようだった。
 「何に驚いているんです?」彼は尋ねた。「地上のことが天のことよりも低級で悪いものだなんてことはありませんよ。この世とあの世の間には、一方が悪く、他方が優れているなどという関係性はありません。肉体の神聖さは霊魂の如しですよ」
 「しかし『10コペイカのミルク』とは――あまりにも散文的すぎる」プストロスリョーフは反論した。
 プリクローンスキーはしばらく黙り込み、落ち着いた目で彼を見て、何か別のことに答えるように、さらに興味深い言葉を語った。
 「我々は自然の中で生きているが、それは隅から隅まで生への欲求に満たされている。何千年も昔の自然が持つ意志の力はとても甚大で、それによって無数の種の生物が地上に誕生した。今や自然の力は異なる性質をはらんでいる。自然が目指しているのは生のみではない、――自己の自覚を目指しているんです。我々を取り囲むのは存在への強い欲求のみではなく、この上なく意識的であることであり、――人間であること、そしてよりいっそう、人間であることなんです。その家にいる、小さな精霊たち、あなたが長らく身の回りに感じ取っている彼らは、あなたの意識の扉をしきりに叩いていたわけです。あなたは今やあなたを待ち受けるその出来事を信じて身を委ねねばなりません。それはあなたを欺いたりしない。少なくとも、はっきりと断言できるのは、彼らはあなたにその資質が無いようなことは決してしないということです」
 どうやら、プリクローンスキーはまだまだしゃべるつもりだった。しかし彼の唇の軽い動きが、彼の不細工で、年に似合わず老け込んだ顔に皮肉な表情を与えいてるのを見ると、プストロスリョーフは彼を欺きたい欲求を感じた。彼はぼんやりと耳を傾け、ついにこう言った。
 「単に神経が乱れているんですよ」
 「単に、ね」曖昧な声色でプリクローンスキーが繰り返した。

 ふたたび寒く、退屈で、孤独な夜が続き、――彼には果てしなく、そしてどうでもいいもののように思えた。どこにもプストロスリョーフは出かけなかったが、もし彼を待つ人々がいる場所があったなら、彼もその時は喜んでそこへ出向いただろう。その時は。しかし今、何かがプストロスリョーフを捕らえて、妙な期待感が彼をひどく痛ましいほど苦しめていた。
 続いていた。うんざりするほど夜が続いていた、――そして全てがありきたりで、退屈で、単調で、いつもと変わりなく、――もはや何もなければ、起こりもしないような気がしていた。いつものことのほかには。奇跡もなければ、あの世の、身近でありながら永遠に謎めいた、恐ろしくも魅力的な現象もない。
 ふたたび疲れがプストロスリョーフを襲っていた。彼は横になって本を取り、ベッドに入ることのできる時間まで、時間を潰そうと思った。放り投げた本は、うんざりするほどつまらなかった。目を閉じた……。
 どうしてもっと早くに彼は気づかなかったのだろうか。いつもそこには彼とともに何者かがいて、問いかけつづけて、立ち去らなかった。何を望んでいるのだろうか?
 プストロスリョーフは小さな声で、目を開けずに言った。
 「教えてくれ、何が望みだ、どこにいて、そして何者なんだ。お前のことを教えてくれ。望むことはなんでもしてやるし、お前の行くところにだって行ってあげよう」
 軽やかな足音が聞こえた。謎めいたお客は近づくと、枕元のすぐ真上で立ち止まった。あまりに近く、――手を伸ばせば触れられそうだった。あまりに近く――そしてあまりに遠かった。
 プストロスリョーフは横向きになって、枕元の方へ手をやった、――すると突然小さな、不安に満ちた言葉が聞こえた。
 「見ないで。触らないで。まだだよ。」
 プストロスリョーフはふたたびゆったりと仰向けになると、目を閉じて聞いていた。
 聞こえてきたのは、白い男の子のやわらかな声だった。
 「生きられたらなぁ!」
 その短い叫びの中には、訴えかけるような寂しさ、偉大で勇敢な生活への渇え、聖なる戦の火で人生の一瞬一瞬を満たしたいという欲求の高まりが込もっていて、プストロスリョーフは彼の魂がもう長いあいだ経験していなかったような高揚感に捕らわれているのを感じた。彼は起き上がった。あわてて驚くべき扉があったはずの場所へ近づいた。扉のことは頭になかった、――どういうわけか意に反してちょうどその場所に近づいていた。立ち止まった。待っていた。そして全身が震えていた。
 あたかも静かにそよぐ軽やかな風のように、彼のそばを白い少年が通り過ぎたが、ゆらめいていて、どうにか見えるというほどだった。壁にある謎めいた扉が開いた。扉の向こうには――狭く、暗い通路があった。そしてプストロスリョーフはためらうことなく男の子の後を追い、見ず知らずの道を進んでいった……
 そのころはせわしない日々が続いていた。仕事の日は食事もとらず、労働のうちに過ぎていた。多くの兵士やコサックたちがいた。ときおり道端で殺されていた。
 その道は長かった、けれどもなぜかプストロスリョーフはそのことを気にも留めなかった。ついに彼が気が付いた時には、木造の古い家の中庭に立っていた。門の下には外灯がともっていたが、その方向をずっと見ていれば、中庭はいっそう暗くなり寒さを増していただろう。プストロスリョーフ一人きりだった。待っていた。誰かが静かに、そして軽やかに彼のそばをすり抜けて行き、姿を消した。
 「どこへ行くんだ?」プストロスリョーフは尋ねた。
 そしてもうそのあとには門番の姿が見えた。若く、背の高い、やつれた青年で、赤くごわごわした髪をしていて、それがあまりに多いせいで、まるでニット帽を持ち上げているみたいだった。
 「どなたにご用で?」風邪をひいているような気だるい声で尋ねてきた。
 プストロスリョーフは名字を伝えた、――それがふと頭に浮かんで来た気がしたからだ。
 「エリザーロフはここに?」
 「でしたら、あそこの階段で、4階です」門番が答えた。
 まるで夢であるかのように、プストロスリョーフの前を恐ろしい印象が通り過ぎて言った。悪臭を放つ部屋、気が滅入るほど多くの飢えた様子の人々。イコン画の下には、――死んだ女がいた。男の子は、その女の息子だ。吐き気を催すほど、汚らしく、醜く、恐ろしくも奇妙なほど毎夜プストロスリョーフのもとにやってくる子に似ていた。
 男の子はひとりきりだった。両親はいなかった。プストロスリョーフはその子を引っぱっていった。食い入るような、飢えた目が、男の子を連れているあいだ、彼を見つめていた。
 そしてこれらすべてのことが瞬く間に過ぎ去って、これらすべてのことがプストロスリョーフには夢の中のように思えた。
 ナターシャという、礼儀正しく厳格な召使いは、怒ったように顔をしかめた、プストロスリョーフが男の子を連れて来たことや、その世話をしなければならないと言ったせいだ。
 「2時間でも綺麗にゃなりませんよ」と彼女は愚痴をこぼした。
 翌朝プストロスリョーフが男の子のために注文した白い服、それは彼が見た謎めいたお客さんが着ていたのと同じものだった。
 支払いは値切りもせずに、気前もよく、祭日前の急ぎのことにもかかわらず、服は晩までには仕上がっていた。
 そして夜、入念に体を洗い、散髪もし、ほっそりとして色白で、黒い瞳を煌めかせ、短い白い服を身につけ、下は生足で、靴も履かないままの少年がゆっくりプストロスリョーフの方へ近づいてくると、プストロスリョーフは空恐ろしくなった、――この男の子が毎夜やって来ていた謎めいたあの子にあまりにそっくりだったから。
 「おまえはどこから来たんだい、グリーシャ?」プストロスリョーフは尋ねた。
 男の子はぎこちなく肩を震わせ、細く小さな指で服のシワを引っ張って、こう答えた。
 「工場だよ」
 少しの沈黙があった。その後、子供っぽく泣き出しそうになって言った。
 「朝ナターシャと一緒に出かけて、ママを埋めたの。パパは夏に死んじゃって、もうママも死んじゃった、――いっそ倒れて死んじゃいたい」
 「今からお前は私の子だ」プストロスリョーフは言った。
 男の子は少し黙って、目を伏せると、小さな声でささやいた。
 「ありがとう」
 男の子はおとなしかったが、おどおどしてはいなかった。彼はよその人に人見知りをして、誰かがやってくれば、逃げようとしていた、けれども引き止められたりした時は、率直かつ簡潔に質問に答えて、いにしえの生き物のようにどっしりと落ち着き払っていた。
 祭日が近づいていた。プストロスリョーフはグリー者のためにツリーを用意した。子供たちも呼んだ。10人ほどの小さなお客さんたちが、貧富の別なくやって来ていた。陽気でにぎやかだった。プストロスリョーフはグリーシャが笑っているのがうれしかった、けれどその注意深く、あまりに黒く、あまりに奥深い瞳を見つめるのは恐ろしかった。
 翌朝彼はたずねた。
 「グリーシャ、どうだい、昨日のツリーは気に入ったかい?」
 グリーシャはいつものクセで、少し黙って、服のシワを引っ張り、そのあと異様に落ち着き払った声で言った。
 「ツリーは――とってもよかった。素敵だった。でも子供たちは嫌だった」
 「何が嫌だったんだい?」驚いてプストロスリョーフは尋ねた。
 グリーシャは生き生きと語り出した。
 「あたりまえだよ、――みんな自分は違うって思ってるんだ。お金持ちの子は見下すようだし、貧乏の子は妬みっぽくて、みんながみんな妬みあって、そうしてみんな目をたぎらせてるんだ。いくら言っても言い足りないぐらいだよ。本当に、妬みあってるんだ」
 プストロスリョーフは頻繁にグリーシャと話をした。毎夜。そしていつもプストロスリョーフは自分のもとにグリーシャを呼び寄せる時、その子から何か奇妙で恐ろしい言葉が出てくるのを期待しつつも怯えているような恐怖があった。
 「グリーシャは知っているだろうか、夜にあった出来事を?」時おりプストロスリョーフは考えるのだった。「聞いてみるべきではないのか?しかしどう聞くんだ?」
 そしてとうとう尋ねてみた。
 「グリーシャ、君は以前にうちに来たことはあるかい?」
 男の子の顔はひときわ青ざめて、まるで急に驚いたようだった。おどおどして囁いた。
 「どうして知ってるの?」
 プストロスリョーフは目を閉じた。彼の頭の中はひどく苦しいほど混乱していた。
 グリーシャは話しつづけた。
 「僕来たことあるよ。夢の中で。僕が見たのは、旦那さんのような人が机に向かって座って、じっくりと考え事をしていたの。けど顔は見えなかった。まるでのっぺらぼうみたいに見えたんだ。でもそれだけじゃはきりしない。今になってわかったけど、――この家のものみんな、机も、ランプも、みんなこんな風だった」
 「グリーシャ、なぜこの家にやって来たんだい?」
 グリーシャはため息をついた。
 「こうだよ」グリーシャは語った。「旦那のような人が座っているのが見えたけど、顔は見えなかった。それで僕はこう言ったの。『旦那さん、ねえ旦那さん、僕たちは一生一人で飢えているのも悪くないよ。一緒に死のうよ』。けれど旦那さんは何も言わないの。ずっと考え事をしてるの。それで、僕は帰ったの。その後でママは死んじゃった。それからあなたが僕を連れて来たの」
 「グリーシャどうして君は私を呼んだんだい?」滅入った様子でプストロスリョーフは尋ねた。
 グリーシャは笑い出した。夜の時みたいに。あの時の震える急かしたような笑い声だった。まるで急かした泣き声のようだった。あまりに明瞭で、あまりに陰気だった。
 「でもどうして?」熱っぽくグリーシャはしゃべりだした。「どうしてそう思うの?なぜなの、教えてよ、なんのためにぼくたちは犬みたいな生活をしなくちゃいけないの?一体なんのためにぼくたちは地上に暮らして、お互いをいつも傷つけあってるの?なんのために?それに一人が暴力をふるうなら、みんなひたすら耐え続けなくちゃいけないの?」
 プストロスリョーフは黒い、燃えるようなグリーシャの瞳を見て、青白く、痩せた、とても美しい顔を見た。空恐ろしかった。それでもグリーシャは話し続けていた。
 「みんなで一緒に行けば、新しい大地、新しい空にたどり着いて、そこでは凶暴なライオンにかぶりつかれることもないし、蛇も噛み付いたりしないだろうに。もうぼくたちに自由はないから、どこにも行けやしないよ」
 「グリーシャ、どこでそんな言葉を覚えたんだ?」
 彼はこの暗い誘惑を打ち消したかった、それが長いあいだ彼を自らの領域のうちに捉えていたのだ。
 グリーシャはほんのり赤くなった。
 「たぶん、僕はバカなことを言ってるんだ。わからないよ。人は人から聞いたことを、自分でも考えつくものでしょう。あなたは自分が貴族だと思ってるけど、あなただけがそう思っているの?僕も考え事は好きだよ。今あなたに話してあげる」
 グリーシャは沈黙した。
 「グリーシャ、話しておくれ」
 「もし僕があらゆることをみんな知っていたら、人間になろうだなんて思わない」

 何度となくこのように奇妙で子供らしくもない話をした。翌朝プストロスリョーフは思った、この話をしたのはグリーシャじゃなく、あの言葉たちはすべて夜半のまどろみの中、問いつづけても答えを見つけられないために疲れ切った人のまどろみの中で夢を見ていたんだと。
 それにグリーシャ自身も昼間は素朴で普通の男の子になっていて、いかにも単純な子供じみた思いつきや興味を抱いていた。ただとても物静かでつつましく、とてもやせているだけだった。そして今は亡き両親を思い出す時は、時おり涙を見せていた。工場で働いていた二人のことを話す時には、悲しげで暗い表情で、震え出して、静かにその場を離れた。
 母親の棺のそばでは、髪もくしゃくしゃに乱れ醜いほどだった。しかし実際にはむしろ美しかった。あまりにやせ細っているだけだった。
 そして素晴らしいのは、彼には嫌悪感を催すような癖が少ないことだった。もしくは、ひょっとするとそれは、彼が物静かで注意深く、その場ですべきでないことにすぐ気がつくからかもしれない。
 大祭日が近づいていた。快い自由の息吹が我が祖国の街や名もない村々の上に漂っていた。激しい怒りが高まって、その荒々しい呼吸のうちにやわらかな希望がぬくもりを帯びていたが、それは長いあいだ無関心で無慈悲な雪の下に身をひそめていた。
 グリーシャは夜にプストロスリョーフのもとへやって来た。どうやら、何かを伝えたいらしかった。
 「グリーシャ、どうしたんだい?」プストロスリョーフは尋ねた。甲高い、決然とした声で話した。
 「僕たちはあした出て行きます。僕も行きます」
 プストロスリョーフは驚いた。
 「グリーシャ、どこへ行くんだ?なんて馬鹿げたことを!」腹を立てて彼は叫び声をあげた。「そこで何をするというんだ、こんな小さなおまえが?」
 グリーシャの瞳は燃え上がり、頬は紅潮した。
 「行くんだ」静かに、けれど決然と彼は言った。
 プストロスリョーフは問い詰めても無意味だと悟った。
 「グリーシャ」なだめるように言った。「朝は夜よりも賢い、だ。このことは明日しっかり話をしよう。――今はもうおやすみの時間だろう?」
 グリーシャははにかんだ笑みを浮かべた。
 「おやすみはあっちからやってくるよ」彼は言った。「でもどんなおやすみがあるの?白いのはまだ先にあるし、緑色のは早くって、灰色のは嫌だし、黒いのはあなたが放ってはおかない、――どんなおやすみがあるっていうの?あるのは赤色だけだよ」
  恐ろしく、容赦のない一日が、凍えた不気味な街のうえに立ち上って来た。群衆は武器を持たず、武装した人々は殺戮を行なっていた。恐怖が首都に蔓延していた。
 プストロスリョーフは朝早くに家を出た。グリーシャのことは忘れていた。面会と面倒ごとにかかりきりになっていた。
 そして突然、群衆の話し声の中の言葉がふと耳に入った。
 「たくさんの子どもたちが……」
 たちまちに思い出した。恐ろしくなった。家に帰った。馬車を急かしに急かした。そしてその恐ろしさと重苦しさは、まさに取り返しのつかない不幸な出来事が起こった時のようだった。
 家に着くと――ナターシャの顔があり、目を泳がせて、どうでもいいことを口ばしった。
 「ああ、アンドレイ・パーヴロヴィチ、外では何が起こってるんですの?」
 「グリーシャはどこだ?」プストロスリョーフは叫んだ。
 ナターシャはうろたえた。顔が赤くなった。泣き出した。
 「昨晩の言いつけどおり、コートも長靴もみんなクローゼットにしまったんです。けどどうやってかあの子は鍵を見つけたみたいで、見当もつきません。それにとっても静かだったんです。とても静かで。ちょっとのあいだ出かけて、戻ってきたら、グリーシャはいなかったんです。服を着てからどうやって姿を消したんでしょう?見当もつきませんわ」
 プストロスリョーフはふたたび通りへ出た。馬車乗り場で立ち止まった。どこへ行こう?
 ずっと同じ方向へ進んでいた。急ぎつつ、身を守るように。赤毛のひげをたくわえた若者が、労働服に眼鏡姿で話をしていた。
 「やつは何を持って我らを迎えたか!武力と銃弾だ」
 門番や商売人たちの群がりから意地の悪い話が聞こえた。
 「学生だ。変装してやがる」
 なにやら羊皮の帽子をかぶった若者が足早に駆けて叫んでいた。
 「同志たちよ、回り込まれたぞ!」
 彼らは駆け出した。
 騎兵隊があらわれた。彼らはゆっくりと進んでいた。四つ辻に労働者の一群が集まった。叫び声が聞こえた。兵士めがけて空き瓶が宙を舞った。二人の騎馬兵が隊列から離れた。無様に剣を振り回していた。群衆は散り散りになった。
 プストロスリョーフは脇道へそれた。どこかへ向かって歩いていた。急ぎ足で、人をかき分け運まかせに町の中心を目指して進んでいた。どこもかしこも通り抜けることができなかった、――列をなした兵士たちが立ちふさがり、通してもらえなかった。
 喧騒、群衆、コサックたち、時計の音、――それらすべてが意識の脇をすり抜けていった。プストロスリョーフ、自分を待つ人たちのことも、自分の仕事のことも忘れていた、――グリーシャのことだけが頭の中で延々と繰り返し浮かんで来て苦しかった。すると突然グリーシャが目に入って来た。男の子がそばを走り抜け、極寒に晒されおぞましいほど青白くなっていた。プストロスリョーフに向かって叫んだ。
 「行こう、僕について来て」
 青白い顔の黒い瞳が、一瞬の稲妻のように、疲れ切ったプストロスリョーフの眼差しの前で閃いた。そしてその瞬間に鋭いラッパの音が街中の喧騒の中に響きわたった。
 「グリーシャ、帰るんだ!」プストロスリョーフは叫んだ。
 人々がそばを駆けていき、叫び声をあげていた。たくさんの恐怖に歪んだ顔が目に入った。通りから人が消えた。
 そしてふたたびグリーシャがいた。プストロスリョーフの方へ近づいて来た。
 「どうしてみんな走っているの?何を怖がってるの?」そう尋ねる声は、かん高くひびいて、ふるえていた。
 あまりに青白く、瞳はあまりに輝いていた。
 プストロスリョーフは彼の肩をつかんで言った。
 「坊や、うちへ帰ろう。ここにいる必要はない。みんな殺し合っているんだ」
 グリーシャは笑い出した、――夜中の男の子と同じように。
 プストロスリョーフがグリーシャを見る瞳には当惑と憂いが込められていた。白く、輝きを放ち、夜のお客さんそのままに、男の子は話した。
 「殺し合えばいいさ。おびえているの?一緒に死のうよ。こんなひどい人間たちと生きる価値はないよ。僕はこの人たちといたくはないよ」
 突然どこか奇妙なほど近くで聞こえてきたのは、数多の馬の唸り声と足音だった。騎馬隊がゆっくりと一定の足どりで近づいて来た。あぶく汗をかいた馬の顔はすぐそばで、不思議なほど優しくおだやかで、いつもと変わらなかった、――しかしその上で揺れていたのは、猛り狂った間抜け顔だった。
 そして一糸乱れぬ隊列の唸り声と足音の上で不意にかん高い叫び声が響きわたった。
 「死刑執行人どもめ!」
 グリーシャはプストロスリョーフの手を振りほどき、かん高く叫び、騎馬隊めがけて駆けていった。白い、残酷な微笑みが輝き、空に長い鋼鉄の条が閃光を放った、――将校がグリーシャに手を下したのだった。
 子供の亡骸の上を颯爽と騎馬隊が駆けていった。

 小さなボロボロの屍は埋葬された。プストロスリョーフは生き残った、――疲れ切って、喜びもなく、仕事のための毎日の労働の忙しなさに飲み込まれ、――勤労は業績につながったが、それでも未だ大きな喜びはなかった。
 しかし時は流れ、彼は待っていた。大祭日が近づいていた。ふたたび光を放ったクリスマスの男の子がやって来た。
 すでに何度もなんどもやって来ては、静かに、問いかけるように、あたたかい微笑みに照らされて、――独りの夜のしじまの中で近づいて来て、プストロスリョーフの疲れ切った顔を覗き込んだ。
 そしてふたたびプストロスリョーフはその子の静かな、延々と続く囁きを耳にした。
 「僕の望みだよ。あの人たちと行くんだ、――だからあなたも僕と行こうよ、新しい世界へ、この朧げな、けれども確かに存在する扉の向こう側へ」
 そしてプストロスリョーフは分かっていた、彼はもはやグリーシャを一人にはしないことを、――一緒に、その後について行くのだと。そしてささやいた。
 「坊や!どこにいるんだい?誰なんだい?」
 すると聞こえてきた。
 「そばに行くよ。一緒に行こう」
 そして繰り返した。
 「一緒に死のう」


初出:1905年12月26日、27日

出典: Собрание сочнение в шести томах. Т. 1. М. НПК <<Интелвак>>, 2000, сс. 631-644.

www.fsologub.ru



ひとこと:
ソログープは20世紀初頭のロシア象徴主義の代表的な作家の一人です。主に厭世的で死を礼賛する内容が多く、登場人物が死ぬことにより救われる作品を多く書いています。