翻訳と日々

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クリスマスの夜に / アントン・チェーホフ

 若い女で年は23といったところか、ひどく蒼白い顔で海岸に立ち、遠くを見つめていた。ビロードのブーツを履いたその小さな足もとから、下の海へ古びた狭い梯子が伸びており、ひどくぐらつく手すりがひとつ付いていた。
 女が見つめる遠くで口を開いているのは、深い、見通せないほどの闇に満たされた空間だった。星も、雪に覆われた海も、火も見えなかった。強い雨が降っていた。
 『あそこで何が起こってるのかしら』--女はそう考えて、遠くをじっと見入りながら、風と雨のせいで濡れそぼった毛皮のコートとショールに身をくるんでいた。
  どこか向こうの方、この見通せないほどの暗闇の中、5キロ--10キロあるいはもっと遠くでは、きっとこの瞬間も彼女の夫である、地主のリトヴィーノフが、かれの漁業組合の人たちと一緒にいるのだ。海の水位が上がって、どうやら、じきに氷が割れるということだった。氷はこの風に耐えられないのだ。彼らの乗るボロボロの袖網を積んだ鈍く動きの悪い漁業用のソリは、蒼白の女の耳に目覚めた海の咆哮が届く前に、岸まで辿りつくだろうか?
 女はどうしても下へ降りて行きたくなった。手すりが手元でぐらついて、濡れてべたべたしたせいで、手から滑って、まるでドジョウのようだった。段々にしゃがみこんで、四つん這いで降りはじめ、ぎゅっと両手で冷たく汚い段々を握りしめていた。風が出てきて、毛皮のコートをまくりあげた。胸元に湿気が吹きつけた。
 「聖者ニコライ様、この梯子は底なしです!」若い女はそう囁いて、段々をたぐり降りていた。
 梯子はちょうど90段あった。曲がることなく、下にまっすぐと、直角で垂直に伸びていた。風が意地悪く彼女を右に左に揺すぶると、彼女はヒビが入りそうな板みたいに軋むような声をあげた。
 10分後には女はもう下の海辺にいた。そしてこの下は真っ暗闇だった。風もここでは上の時より意地悪さを増していた。雨が降りしきり、なんだか止むことがないように思えた。
 「だれがそこにいるの?」聞こえてきたのは男の声だった。
 「わしだよ、デニスだ……」
 デニスという、背が高く頑強で白い頰ひげを生やした老人が、岸辺に立って、大きな杖をつき、やはり見通すことのできない遠くの方を見つめていた。彼は立ちどまって、着ている服の乾いたところを探しながら、そこでマッチを擦ってパイプを吸おうとしていた。
 「あんたは、地主の奥さんのナターリヤ・セルゲーエヴナかい?」いぶかしそうな声で彼が聞いてきた。「それでこんなところでどうなさった?子供を産んだばかりの身体じゃ風邪ひいたら、まっさきに死んでしまうぞ。お帰んなさい、おっかさん、自分の家に!」
 老婆の泣き声が聞こえた。泣いていたのは漁師のエフセイの母親で、彼はリトヴィーノフと漁に出ていたのだった。デニスはため息をついて諦めたように手を一振りした。
 「あんたは生きて来たんだろう、ばあさん」彼は誰にともなく言った「70年もこの世でさあ。そのくせ小さな赤ん坊みたいに、ものわかりが悪いんだ。どんなこともよう、あんぽんたんよ、神様の御心さ!あんたみたいに年をとった弱い体じゃペチカの上で寝とくもんだ、びしょ濡れでいちゃいけねぇ!ほら行くんだ!」
 「だって私のエフセイじゃないか、エフセイや!わたしにゃたった一人なんだよ、デニス爺さん!」
 「神様の御心さ!あいつの運命が、なあ、海で死ぬようになってなけりゃ、100回割れたって、あいつは生きのびるさ。しかしもしよ、おっかさん、ここで死を受け入れる運命なら、わしらには決めることはできんのだよ。泣くんじゃない、ばあさん!エフセイだけが海にいるんじゃねえ!あそこにゃ地主のアンドレイ・ペトローヴィチもいる。あそこにはフェージャも、クージマも、タラセンコフのアリョーシュカもいるんだぞ」
 「ねえあの人たちは生きてるの、デニス爺さん?」ナターリヤ・セルゲーエヴナが震える声で聞いた。
 「いったい誰が知るもんかね、奥さま!昨日か3日目に吹雪に埋められてなけりゃ、そんときは、それなら、生きとるだろう。海が割れたりしなけりゃ、生きとるでしょう。おや、なんて風だい。ひどいくらいだ、助かりゃいいが!」
 「誰かが氷の上を歩いてる!」突然そう発した若い女の声は不自然なほどしゃがれていて、まさに怯えながら、前に進んだ。
 デニスは目を細めて耳を澄ました。
 「いいや、奥さま、誰も歩いとらんよ」かれは言った。「ありゃあボートに馬鹿のペトルーシャが乗ってオールを漕いでいるんだ。ペトルーシャよ!」デニスは叫んだ。「おるのか?」
 「いるよ、じいさん!」弱々しく、病的な声がした。
 「痛むのか?」
 「痛むよ、じいさん!もうだめだ!」
 岸辺の、氷のすぐそばにボートが浮いていた。ボートの底にいたのは背の高い若者で、醜いほど手足が長かった。それが馬鹿のペトルーシャだった。歯を食いしばって全身を震わせながら、彼は暗い遠方を見て、それから熱心に何かを見分けようとしていた。何かが海から起こるのを期待していた。長い両腕はオールをつかんでいたが、左足は体の下に折り曲げていた。
 「病気なんだようちの馬鹿は!」デニスはそう言って、ボートの方に向かっていた。「足が痛むのさ、かわいそうに。あいつが分別を無くしとるのも痛みのせいだ。お前よう、ペトルーシャ、あったかいところへ行かねえか!ここじゃもっとひどい風邪をひいちまうぞ……」
 ペトルーシャは黙っていた。痛みに身震いして顔をしかめた。痛むのは左の太ももの、後ろ側で、そこはちょうど神経が通っている所だった。
 「行くんだ、ペトルーシャ!」デニスはやわらかな、父親の声で言った。「ペチカで横になれば、ご加護があって、朝の礼拝までには足もよくなっとるさ!」
 「感じるぞ!」ペトルーシャは口を開けてつぶやいた。
 「なにを感じるんだ、馬鹿や?」
 「氷が割れたんだ」
 「どうしてわかるんだ?」
 「そんな音が聞こえたんだ。ひとつは風に乗って、もうひとつは水を伝って。それからまたひとつ風が吹いたぞ、柔らかくなってさ。こっから10キロも先じゃあもう割れてるんだ」
 老人は耳を澄ました。長々と聞いてみても、一帯のざわめきのなかでは何も判別できず、ただうなる風と単調な雨の打つ音がするだけだった。
 半時間が期待と沈黙のうちに過ぎ去った。風は自分のなすべきことをしていた。さらにいっそう強さを増して、どうやら、なにがなんでも氷を割って婆さんから息子のエフセイを、そして青ざめた妻から夫を奪ってやろうとしているかのようだった。雨はその間にどんどん弱まっていった。すぐにまばらになると、もう暗闇の中にも人影やボートのシルエット、雪の白さを見分けることができた。風の唸りの中から音が聞こえた。鳴っていたのは上の、漁師の村にある、古びた鐘だった。吹雪に、それから雨に捕らえられた人たちが、目指して進むにちがいないこの音は--溺れる者が掴む藁なのだ。
 「じいさん、水はもう近いぞ!聞こえるだろ?」
 爺さんは耳を澄ました。今度は彼にも唸りが聞こえたが、それは吠える風ともざわめく木々とも違っていた。馬鹿は正しかった。もはや疑う余地もなく、リトヴィーノフと漁師たちは陸に帰ってきてクリスマスを祝うことはないのだった。
 「おしまいだ!」デニスが言った。「割れたんだ!」
 老婆は金切り声をあげて地面にうずくまった。地主の妻は、濡れて寒さに震えながら、ボートに近寄って聞き耳を立てた。そして不気味な唸る音が聞こえた。
 「きっと、これは風よ!」彼女は言った。「まさか信じてるの、デニス、氷が割れたなんて?」
 「神の御心なんです!……われらの罪ゆえです、奥さま……」
 デニスはため息をついて、優しい声で付け足した。
 「上におあがりなさい、奥さま!そんなにずぶ濡れになってしまって!」
 そして岸辺に立つ人々が耳にしたのはちいさな笑い声だった、子供のような、幸せそうな……。笑っていたのは青ざめた女だった。デニスは喉を鳴らした。彼は泣きたい気分の時にいつも喉を鳴らすのだった。
 「気が狂っちまった!」彼は男の黒い影につぶやいた。
 あたりが明るくなった。月が顔をのぞかせたのだ。今なら全てが見通せた、半分だけ雪の溶けた海や、地主の妻や、デニスや、馬鹿のペトルーシャが耐え難い痛みに顔をしかめるのも。傍らでは百姓たちが立っていて、何のためだか手にはロープを握っていた。
 明らかに最初の割れる音が岸からほど遠からぬ所で響いた。すぐに二つ、三つと響きわたって、あたりには恐ろしいほどの割れる音が鳴り響いた。白い、果てしなく大きな塊が身を揺すりだし、暗くなった。怪物が目を覚まし、その荒れ狂う生命活動を始めたのだった。
 吠える風も、ざわめく木々も、ペトルーシャのうめき声も、鐘の音も--全てが海の唸りの陰で鳴り止んだ。
 「上に逃げるんだ!」デニスが叫んだ。「今に岸も水浸しになって氷に覆われちまう。それに朝の礼拝ももうはじまるぞ、お前たち!お行きなさい、奥さんよ!神様もそう望んでらっしゃるよ!」
 デニスはナターリア・セルゲーエヴナに近づいて用心して彼女の肘をつかんだ……
 「行きましょう、おかっさんや!」そう言うかれの声は優しく、思いやりに満ちていた。
 地主の妻はデニスの手を払い、はつらつとして頭をあげると、梯子の方へ向かった。彼女はもはやひどく青ざめた顔をしてはおらず、頬は健康的な赤みが踊り、まさに彼女の肉体に新鮮な血が注がれたかのようで、見つめる瞳はもはや泣いてはおらず、胸元でショールを握る両手も、さっきみたいには震えていなかった……。今では、他人の助けがなくとも、自分で高い梯子を登っていける気がした……。
 三段目に足をかけた時、釘付けになったように立ち止まってしまった。彼女の前に、背の高いすらりとした男が大きなブーツと毛皮のハーフコートを着て立っていた……。
 「俺だよナターシャ……怖がらなくていい!」そう言ったのは夫だった。
 ナターリヤ・セルゲーエヴナはふらついた。背の高いキッド毛皮の帽子に、黒い口髭、黒い瞳で、夫で地主のリトヴィーノフだとわかった。夫は彼女の手を引き上げて、頬にキスをし、さらにシェリー酒とコニャックの酒気を吹きかけた。彼は軽く酔っていた。
 「喜べナターシャ!」彼は言った。「俺は雪にも埋もれなかったし、沈みもしなかったぞ。吹雪の時、俺と仲間たちはタガンローグにたどり着いて、そこからおまえのもとに帰ってきたんだ……帰ってきたんだよ……」
 彼は黙り、彼女はふたたび青白い顔で震え、彼を見る目は戸惑いそして驚いていた。彼女は信じられなかった……
 「こんなにずぶ濡れで、震えてるじゃないか!」そうささやくと、彼女を胸に押し寄せた。
 幸福とワインに酔いしれた彼の顔に、やわらかで、子供のように善良な微笑みがこぼれた。彼を待っていたのだ、この寒さの中で、こんな夜中に!これが愛でないのだろうか?そして彼は幸せを感じて笑い出した……。
 鋭い、魂を引き裂くような悲鳴が、静かな、幸福な笑い声に答えた。海の咆哮も、風も、なにもかもその悲鳴をかき消すことはできなかった。顔を絶望に歪ませて、若い女は悲鳴を抑える力もなく、それが外に飛び出てしまった。悲鳴の中からはあらゆることが聞き取れた。意に反した結婚、そして抑えられない夫への嫌悪感、それから孤独への渇き、そしてさらには、崩れ去ってしまった気ままなやもめ暮らしへの希望。彼女の生活の全てが、悲しみも、涙も、痛みも一緒くたとなって悲鳴のうちに溢れ出て、みしみしと音を立てる氷もそれをかき消せなかった。夫はこの悲鳴の意味を理解した、そう、それに理解せずにはいられなかった……
 「つらいってわけだな、俺が雪に埋もれもせず、氷に潰されもしなかったことが!」彼はつぶやいた。
 下唇は震えだし、顔には苦い笑いが広がった。梯子の段を降りて、妻を地面に突き放した。
 「お前の望むようにしてやろうじゃないか!」彼は言った。
 そして、妻に背を向け、ボートの方へ向かって行った。そこでは馬鹿のペトルーシャが、歯を食いしばり、震えながら片足で飛び跳ねて、ボートを水の中へ引っぱっていた。
 「どこへ行くんだ?」リトヴィーノフが尋ねた。
 「痛むんだよ、閣下殿!沈んじまいたいんだ……。死人に痛みはないからな……」
 リトヴィーノフはボートに飛び乗った。馬鹿が後に続いてよじ登った。
 「それじゃあな、ナターシャ!」地主が叫んだ。「好きなようにすればいいさ!受け取れ、待ち望んだ物だ、この寒さのなか立ち通しでよ!達者でな!」
 馬鹿は勢いよくオールを漕ぐと、ボートは大きな氷塊にぶつかってから、大波をめがけて進んでいった。
 「漕げ、ペトルーシャ、漕ぐんだ!」リトヴィーノフが声を出した。「もっと、もっと遠くへ!」 
 リトヴィーノフは、ボートのヘリをつかんで、揺れながらも前をみつめた。ナターシャの姿は見えなくなり、パイプの火も隠れ、ついには岸も消え失せた……
 「帰ってきて!」女の、掠れた声が聞こえた。
 そしてその「帰ってきて」の中に、彼には絶望が聞き取れた。
 「帰ってきてよ!」
 リトヴィーノフの心臓が鼓動を打ち出した……。彼を呼んでいたのは妻で、その時さらに岸の方では教会でクリスマスの朝の祈祷の鐘が鳴り始めた。
 「帰って来てよ!」祈るような同じ声で繰り返した。
 こだまが同じ言葉を繰り返した。いくつもの氷塊が同じ言葉をわめき立て、風がそれを打ち消して、それからクリスマスの鐘も言うのだった。『帰って来てよ!』
 「引き返そう!」リトヴィーノフはそう言って、馬鹿の手を掴んだ。
 しかし馬鹿は耳を貸さなかった。痛みに歯を食いしばり、期待を込めて遠くを見つめ、彼はその長い両手で漕いでいた……。彼にはだれひとり『帰って来て』とは叫ぶことはなく、小さな頃から始まった神経の痛みが、いっそう鋭く突き刺すようだった……。リトヴィーノフは彼の手を掴んでうしろに引っ張ろうとした。けれど手は石のように堅く、簡単にはオールから引きはがすことはできなかった。そう、それに手遅れだった。ボートの方へ巨大な氷塊が迫っていた。この氷の塊がきっと永遠にペトルーシャを痛みから解放したに違いない……
 朝まで青白い顔をした女は海辺に立ち尽くしていた。半ば凍えて、精神的な痛みでヘトヘトになった彼女が、家まで連れられ、ベッドの上に横たえられたときも、そのくちびるはまだずっと囁きつづけていた。『帰って来てよ!』
 クリスマスイブの夜に彼女は自分の夫に愛を抱いたのだった……

1883年

 

出典:

ru.wikisource.org

 

ひとこと
数あるチェーホフのクリスマス物語のうち、最初期の(おそらく最初の)作品。このころはユーモア作家として活動していた時期ですが、この作品はむしろ暗い。単なるユーモア作家じゃなかった様が伺えます。