翻訳と日々

著作権切れの作品を翻訳したりしています。

クリスマスツリー / ミハイル・ゾーシチェンコ

 

 今年でオイラは40才になるのさ、きみたち。つまり、ということは、40回もクリスマスツリーを見た事になる。すごい数だろ!
 まあ、生まれて最初の三年間は、たぶん、ツリーが何なのかわかっちゃいなかった。たぶん、ママが大事に育ててくれてたんだろうな。そんで、きっと4才の頃には飾り付けされた木をぼんやり見てたんだろう。
 ところがね、子供たちよ、オイラが5才になってみたら、ツリーが一体なんなのか、もうはっきりとわかったよ。
 そんでオイラはこの楽しい祭日を心待ちにしてたんだ。それに扉のちっちゃな隙間から母さんがツリーを飾るのを覗き見してたのさ。
 オイラの姉ちゃんのリョーリャはそん時7才だった。姉ちゃんはとんでもなく元気いっぱいな女の子だった。
 ある時オイラにこう言ってきた。
 「ミーニカ、ママは台所にいったよ。ツリーのある部屋に行って、どうなってるか見てみよう!」
 オイラと姉ちゃんのリョーリャは部屋に入った。目に飛び込んできたのはとっても綺麗なツリーだ。ツリーの下にはプレゼントがある。ツリーにはいろんな色のビーズの飾りや旗に電球、金色の木の実にパスチラ、それにクリミア産のりんごが載っていた。
 姉ちゃんのリョーリャが言った。
 「プレゼントは見ないわ。でもそれよりパスチラひとつ食べたいわね」
 それでツリーに近づくと、あっという間に糸に吊ってあるパスチラをひとつ平らげてしまった。
 オイラは言った。
 「リョーリャ、キミがパスチラを食べるんなら、ボクもなんか食べてやる」
 オイラもツリーに近寄ってほんの一口リンゴをかじった。
 リョーリャが言う。
 「ミーニカ、あんたがリンゴをかじるなら、あたしはもう一個パスチラ食べておまけにこのお菓子ももらっちゃうわ」
 リョーリャは背がとっても高い、のっぽな女の子だった。だから高いところにも手が届くんだ。
 彼女はつま先立ちになっておっきな口でパスチラをもう一個食べ出した。
 一方オイラはびっくりするくらい背が低かった。だから低いところにぶら下がってるリンゴひとつしか届かなかった。
 オイラは言った。
 「リョーリャ、キミがもひとつパスチラ食うなら、オイラだってまたこのリンゴをかじってやる」
 そんでオイラはもう一度そのリンゴをつかんで、もう一度ちょっとだけかじった。
 リョーリャは言った。
 「あんたがもう一口リンゴをかじるらな、あたしもう遠慮しないわ、パスチラ3個目食べてそのうえ記念にクラッカーとクルミも取っちゃうんだから」 
その時オイラはもうちょっとで泣き出すところだった。だって彼女は何でも手が届いたけど、オイラは届かなかったんだから。
 オイラは言った。
 「ならオイラだってツリーの横にイスを置いて、リンゴじゃないものをとってやるぞ」
 それでオイラはやせっぽっちの指でイスをツリーのところまで引っ張っていった。けれどイスはオイラの方に倒れてきた。オイラはイスを立たせたかった。けどまた倒れてきた。それもまっすぐプレゼントの方に。
 リョーリャが言った。
 「ミーニカ、あんた、もしかして、お人形さんを壊しちゃったんじゃないの。やっぱりそうだわ。あんたがお人形さんの陶器の手を叩き割っちゃったのよ」
 するとママの足音が響いてきた、それでオイラとリョーリャは違う部屋に逃げた。
 リョーリャが言った。
 「こうなったら、ミーニカ、母さんがあんたにお仕置きしないって保証はないわ」
 オイラは大声で泣き出したかったけど、その時お客さんたちがやってきた。たくさんの子供たちとその親だ。
 そしてその時オイラたちのママはツリーの灯りを全部ともして、ドアを開けて言った。
 「みなさんどうぞお入り」
 そして子供たちがみんなツリーのある部屋に入ってきた。
 オイラたちのママが言った。
 「今から子供たち一人ずつ私のところにおいでなさい、みんなにおもちゃとごちそうをあげるわよ」
 そしたら子供たちがママの方へ寄っていった。そしてママは一人ずつおもちゃをあげた。そのあとツリーからリンゴ、パスチラ、お菓子を取って、それも子供たちに渡した。
 そしたら子供たちはみんな大喜びした。それからママはオイラがかじったリンゴを手にとって、言った。
 「リョーリャとミーニカ、こっちへ来なさい。二人のどっちがこのリンゴをかじったの?」
 リョーリャが言った。
 「ミーニカのしわざよ」
 オイラはリョーリャのおさげ髪を引っ張って言った。
 「リョーリャがオイラにそうしろって言ったんだ」
 ママは言った。
 「リョーリャは壁を向いて隅に立っていなさい。おまえにはゼンマイ式の機関車をあげようと思ってたのに。もうこの機関車は他の子にあげちゃうわ、このかじられたリンゴをあげるはずだった子にね」
 そして機関車を手に取ると4才の男の子にあげてしまった。その子はすぐさま機関車で遊びだした。
 そんでオイラはその子に腹が立ったからおもちゃでその子の手を叩いた。そしたらその子が絶望したように泣きじゃくってるもんだから、その子のママがその子を抱き上げてこう言ってきた。
 「わたしは金輪際この子を連れてお宅にお邪魔しませんわ」
 オイラが言った。
 「帰っていいよ、そしたら機関車は僕のもんだもん」
 するとその子のママはオイラの言葉に驚いてこう言った。
 「きっと、お宅のお子さんは強盗になるんでしょうね」
 そしたらオイラのママがオイラを抱き上げてその子のママに言った。
 「そんなことをうちの子に言う権利などありませんわ。そのひ弱な子を連れて出ていって金輪際うちにはいらっしゃらないでちょうだい」
 するとその子のママが言った。
 「そうさせていただくわ。あなたといるのは--イラクサの中に座ってるようなものだもの」
 そうするともう一人、別のママが言った。
 「私も帰るわ。うちの娘に相応しくありませんもの、手の壊れたお人形で殴りつけてくるなんて」
 すると姉ちゃんのリョーリャが叫んだ。
 「あんたのよわっちい子を連れて帰ったらいいじゃない。そしたら手が割れたお人形は私のものになるもの」
 そんでオイラはママの腕の中に座って、こう叫んだ。
 「だいたいみんな帰ったらいいんだ、そしたらおもちゃは全部オイラたちのものだもん」
 そしたらお客さんがみんな帰りだした。
 するとママは自分たちだけが残ったことにびっくりした。
 けれど突然部屋にパパが入ってきた。
 パパは言った。
 「そんな教育じゃ子供たちを不幸にしてしまうぞ。私はこの子達がお客さんに手をあげたり、ケンカしたり、追い出したりするようになってほしくない。この世で生きづらくなって、孤独に死んでしまうことになるからね」
 そしてパパはツリーに近寄って灯りを全部消した。そうしてこう言った。
 「すぐに寝なさい。明日はおもちゃを全部お客さんたちにあげてくる」
 そんで、ほら、きみたち、この時から35年経ってしまったが、今でもこの時のツリーをよく覚えてるんだ。
 そんでこの35年間、オイラはな、子供たちよ、もう一度たりともひとのリンゴを食べちゃいないし一度たりとも自分より弱い子を殴っちゃいない。それで今じゃお医者さんも言ってくれるんだ、だからオイラは人より陽気で心がやさしいんだってね。



・ひとこと
20世紀初頭の作家ゾーシチェンコの子供向け短編集『リョーリャとミーニカ』から。
ソ連時代、体制からの批判を避けるために多くの作家が児童文学に転向したりしていました。
これもそういった時代の作品。
しかし、ゾーシチェンコはその後ジダーノフ批判により、反体制のレッテルが貼られることとなりました。他には詩人のアンナ・アフマートヴァ、作曲家のプロコフィエフらも批判の対象となっていました。

 

 

クリスマスの男の子 / フョードル・ソログープ

 プストロスリョーフはやっとひとりきりになった。
 なんという疲れだろう!丸一日人を迎えて話をした。熱い、刺激的な話題だ。仕事が忙しくせわしなく、かかりきりになってしまった。
 かかりきりになったせいで、今ほんの少し休んだら、急にそのことも考えたくなくなった。 疲労があらゆる感情をベトベトするベールで包み込んでいた。目は何も見ようとはしなかった。
 ソファーに寝ころんだ。物書き机の上で飲みかけの紅茶のカップが冷えていた。青白く、やつれた顔が傾いた。暗紅色の枕の上では余計に青白く痩けて見えた。
 遠いシベリアのことが浮かんできた。彼方での強制的な暮らし。猛烈な極寒で、地面は夏でも溶けきらない。厳しい流刑地での仲間たち。長い、長い夜。そしてあまりに暗く、あまりに寒い!
 やすらぎと、心地よさと、家族が恋しくなった。片言で子供が話す声が聞こえるアパート、独り身にはあまりに大きく、あまりに贅沢だ、――それからおどおどしたピアノの練習、――そして不意の笑い声。
 考えた。「おれは不満だとでも言うのか?ほかのやつらに働かせればいい」
 そして微笑んだ。もちろん、ほかのやつらにやらせよう。
 そしてすぐに気づいた、それはふとした思いつきだ。
 いいや、もはや仕事から離れることはできないんだ……
 またひどい眠気だ。
 そして突然軽やかな足音がした。
 身震いがした。目を開けた。
 誰もいなかった。
 おかしなことだが、――このごろプストロスリョーフは疲れて休むひと時に一度ならず、自分一人じゃないような気がしていた。だれかが軽い足どりで歩く音が近くの床からしてきて、――まるで誰か小さい子がこっそりとそばを通りすぎたみたいだった、用心深く、裸足で。小さくてようやくソファーに頭が届くかどうかぐらい。近づいてきて、じっと見つめて、この世のものと思えぬほど美しい顔を上げていた。聞き耳を立てていた。なにやら話している声は小さいながら不思議なほどはっきりと聞こえた。どこかへ呼んでいた。
 けれど目を開けるやいなや――不思議な来訪者は軽やかな足音とともに姿を消すのだった。そしてもうその子はいなくなったことが感じられた。
 はじめ、プストロスリョーフはやって来ていることを気にもしなかった。滅入って疲れている時はいろいろなことが夢に出てきたり思いついたりするものだ。
 けれどこうしてもう数日間も続くと、小さなお客さんがプストロスリョーフの気にかかるようになった。
 前は時おりやって来るだけだった。今では――毎晩。そしてプストロスリョーフはその子を待つようになった。
 ぼんやりと、死んだような、動きのない電気ランプの明かりの中をやってきた、軽やかに、小さな子が。そしてその子の足音は次第にはっきり聞こえるようになって、――まるでもう大きくなったみたいに、堂々として大胆だった。
 以前は爪先立ちで忍び寄ってきた、――ところが目を開けたなら――その子が小刻みな足取りで走って逃げてしまう様子は、まるで驚いた子ネズミのようで、どこに逃げ込んだか暴くことはできなかった。
 今ではやって来るときも悠々としていて、聞こえてくるのは、軽やかに、落ち着きはらってしっかりと寄木細工の床を鳴らす彼の足音だった。そしてプストロスリョーフはまだ素早く眼を開ける覚悟ができていなかった。その、夜の子が急ぎもせずに去っていくとき、プストロスリョーフはついにその子がどこに行ったのか突き止めた。
 それは壁だった。ぼうっと見ている分にはきわめてありふれたものだ。黒い額縁に入ったモナ・リザの版画が掛かる少しななめ下のあたり。二つの椅子のあいだ。壁紙の柄は、見たところ、特に特徴があるわけでもない。しかし何やら奇妙で意味ありげな趣きがその緑がかった風変わりな色に備わっていた。
 そしてプストロスリョーフが長いこと模様に見入っていると、不意に壁のその場所が何かで縁取られたような気がし出して、その後ろには秘密の扉が隠れているようにみえた。
 座って、眼を閉じた。机上のランプが少し離れたところにあるほっそりとした顔に動かぬ光の斑を落としていた。軽やかな足音が聞こえてきた。小さな訪問客が近づいてきて、じっと見つめながら何かを待っていた。そして見知らぬ訪問者が待っているあいだ、どこか不気味で、気が沈み、なにかを強いられているような感じがした。
 『何か言うかなりするなりしないと』と、プストロスリョーフは思った。
 少しだけうっすらと目を開けてみると――不気味で甘美な恐怖に息が止まった。目の前には10歳ぐらいの男の子が立っていて、全身は真っ白で、か細く、光を放っていた。青白い、まさに死人のような顔には、黒い、恐ろしいほど底の知れない瞳が瞬いていた。不思議な形をした、真っ白な服は、細く長い首をあらわにし、ひざ上までのぞくすらりと細い足があった。そして全身にはやすらぎが漂いまさに死人のようだったが、ただ青白い顔にある黒い瞳は生気を帯びて、執拗に問いかけていた。
 一瞬、まぼろしがゆっくりになると――姿を消した。プストロスリョーフは眼を開けて、すぐさま起き上がり、少年の方へ進み、手を伸ばした、――しかし少年はもういなかった。
 「坊や!君は誰なんだい?どこにいるんだい?」プストロスリョーフは叫んだ。
 静まり返った。期待は静寂の中に溶けていった。
 そして突然、――小さな、甘くかん高い笑い声が響き渡った。不安定な静寂の中に響き渡り、――そして静まりかえった。
 そしてプストロスリョーフは急に自分ひとりぼっちなんだと感じた。
 ひとりぼっち!今まで一度たりともこれほどの重みを伴ってこのかくも恐ろしい、かくも偉大で、かくも人間の理解を超えた言葉が彼に迫ってきたことはなかった。
 孤独とは、甘美で比類なきものであり、偉大かつ尊大なる魂の偉大な祝日であり、問いの尽きせぬ人間の偉大な悩みであるのだ!
 そしてこの瞬間にプストロスリョーフが痛感したのは、自分は単に未知のことを問うている人間に過ぎないということだった。憂鬱が不思議と押し寄せてきたとき彼は壁のその場所に近寄った、そこには冷たく謎めいた微笑みのジョコンダの下に秘密の扉が隠されていた、――そして奇妙な言葉がまるでひとりでにのように彼の口をついて出てきた。
 「おまえは人間になりたいのかい?どうしてだい?この憐れむべき存在のなにがいいんだい?」
 そして小さな声の答えはほとんど聞こえないぐらいだったが、不思議と理解できた。
 「なりたい」
 『神経が弱って、乱れているんだ、――翌朝プストロスリョーフは考えた。――この残酷で恐ろしい街から去らなくては』
 けれど彼が着替えているとき、北国の明け方のぼんやりとした弱い光の中で彼のそばを静かで軽やかな足取りで白い、全身真っ白のおとなしい子供がすり抜けて、小さな声で古くさく、奇妙なほどに世俗的で、胸に突き刺さる言葉を発した。
 「飢えた人たち、子どもたち、小さな死体」
 「なんだって?」怯えたプストロスリョーフは聞き返した。
 そして静寂のなかで聞こえてきたのはさらにいっそう単純で世俗的な言葉だった。
 「10コペイカのミルク」

 少しのあいだその恐ろしい姿見せて、姿をあらわすや否や極寒の一日はもう沈んでいった。ネフスキー大通りに街灯が灯りはじめた。こっそりと。だれもそれが点灯するところを見てはいなかった。そしてその光は明るく落ち着きがなかった。
 騒がしい二つの通りの横断歩道で、すこしのあいだ混み合う馬車が通り過ぎるまで立っていると、プストロスリョーフはデカダン詩人のプリクローンスキーを見つけた。ゆっくりと、おぼつかない足取りでプリクローンスキーはプストロスリョーフに近寄ると黙って握手した。
 プストロスリョーフはプリクローンスキーが嫌いだった。彼のことはペテン師だと思っていた。そのことをあちこちで触れて回った。プリクローンスキーのところまで、あきらかに、プストロスリョーフのぞんざいな返事が届いていた。いつだったか、誰も彼もが顔を出し、誰も彼もが退屈する夕べの会で一度会ったとき、プリクローンスキーはプストロスリョーフに近寄ってきて、何の前置きもなしに話し出したが、その内容は自分の習慣のことや、極めて逆説的ではあるが、あらゆる作家はふた通りに分類できるということだった。ディレッタントとペテン師だ。プストロスリョーフはきまりが悪かった。この時から、プリクローンスキーと会うときは、気まずい気分がプストロスリョーフを包み込むのだった。奇妙で、酔っ払って楽しげなプリクローンスキーの据わったはプストロスリョーフに憂鬱をもたらすのだった。
 しかし今はプストロスリョーフはこの邂逅が嬉しかった。
 「あなたのご専門の事件なんですがね」そう言って彼は、皮肉っぽく話そうとしていたが不意に忌々しくもそれがうまくいかないことを予感していた。
 そして白い男の子の話をした。話が拍子抜けに終わってしまうのが忌々しかった。
 「幽霊のすることが奇妙なんです」彼は言った。「死後の世界の話の代わりに、なにやら子供じみた、まったくもって現世的なおしゃべりをするんですよ」
 プリクローンスキーの最後まで落ち着きはらって、まるでごくごくありふれた話でも聞いているかのようだった。
 「何に驚いているんです?」彼は尋ねた。「地上のことが天のことよりも低級で悪いものだなんてことはありませんよ。この世とあの世の間には、一方が悪く、他方が優れているなどという関係性はありません。肉体の神聖さは霊魂の如しですよ」
 「しかし『10コペイカのミルク』とは――あまりにも散文的すぎる」プストロスリョーフは反論した。
 プリクローンスキーはしばらく黙り込み、落ち着いた目で彼を見て、何か別のことに答えるように、さらに興味深い言葉を語った。
 「我々は自然の中で生きているが、それは隅から隅まで生への欲求に満たされている。何千年も昔の自然が持つ意志の力はとても甚大で、それによって無数の種の生物が地上に誕生した。今や自然の力は異なる性質をはらんでいる。自然が目指しているのは生のみではない、――自己の自覚を目指しているんです。我々を取り囲むのは存在への強い欲求のみではなく、この上なく意識的であることであり、――人間であること、そしてよりいっそう、人間であることなんです。その家にいる、小さな精霊たち、あなたが長らく身の回りに感じ取っている彼らは、あなたの意識の扉をしきりに叩いていたわけです。あなたは今やあなたを待ち受けるその出来事を信じて身を委ねねばなりません。それはあなたを欺いたりしない。少なくとも、はっきりと断言できるのは、彼らはあなたにその資質が無いようなことは決してしないということです」
 どうやら、プリクローンスキーはまだまだしゃべるつもりだった。しかし彼の唇の軽い動きが、彼の不細工で、年に似合わず老け込んだ顔に皮肉な表情を与えいてるのを見ると、プストロスリョーフは彼を欺きたい欲求を感じた。彼はぼんやりと耳を傾け、ついにこう言った。
 「単に神経が乱れているんですよ」
 「単に、ね」曖昧な声色でプリクローンスキーが繰り返した。

 ふたたび寒く、退屈で、孤独な夜が続き、――彼には果てしなく、そしてどうでもいいもののように思えた。どこにもプストロスリョーフは出かけなかったが、もし彼を待つ人々がいる場所があったなら、彼もその時は喜んでそこへ出向いただろう。その時は。しかし今、何かがプストロスリョーフを捕らえて、妙な期待感が彼をひどく痛ましいほど苦しめていた。
 続いていた。うんざりするほど夜が続いていた、――そして全てがありきたりで、退屈で、単調で、いつもと変わりなく、――もはや何もなければ、起こりもしないような気がしていた。いつものことのほかには。奇跡もなければ、あの世の、身近でありながら永遠に謎めいた、恐ろしくも魅力的な現象もない。
 ふたたび疲れがプストロスリョーフを襲っていた。彼は横になって本を取り、ベッドに入ることのできる時間まで、時間を潰そうと思った。放り投げた本は、うんざりするほどつまらなかった。目を閉じた……。
 どうしてもっと早くに彼は気づかなかったのだろうか。いつもそこには彼とともに何者かがいて、問いかけつづけて、立ち去らなかった。何を望んでいるのだろうか?
 プストロスリョーフは小さな声で、目を開けずに言った。
 「教えてくれ、何が望みだ、どこにいて、そして何者なんだ。お前のことを教えてくれ。望むことはなんでもしてやるし、お前の行くところにだって行ってあげよう」
 軽やかな足音が聞こえた。謎めいたお客は近づくと、枕元のすぐ真上で立ち止まった。あまりに近く、――手を伸ばせば触れられそうだった。あまりに近く――そしてあまりに遠かった。
 プストロスリョーフは横向きになって、枕元の方へ手をやった、――すると突然小さな、不安に満ちた言葉が聞こえた。
 「見ないで。触らないで。まだだよ。」
 プストロスリョーフはふたたびゆったりと仰向けになると、目を閉じて聞いていた。
 聞こえてきたのは、白い男の子のやわらかな声だった。
 「生きられたらなぁ!」
 その短い叫びの中には、訴えかけるような寂しさ、偉大で勇敢な生活への渇え、聖なる戦の火で人生の一瞬一瞬を満たしたいという欲求の高まりが込もっていて、プストロスリョーフは彼の魂がもう長いあいだ経験していなかったような高揚感に捕らわれているのを感じた。彼は起き上がった。あわてて驚くべき扉があったはずの場所へ近づいた。扉のことは頭になかった、――どういうわけか意に反してちょうどその場所に近づいていた。立ち止まった。待っていた。そして全身が震えていた。
 あたかも静かにそよぐ軽やかな風のように、彼のそばを白い少年が通り過ぎたが、ゆらめいていて、どうにか見えるというほどだった。壁にある謎めいた扉が開いた。扉の向こうには――狭く、暗い通路があった。そしてプストロスリョーフはためらうことなく男の子の後を追い、見ず知らずの道を進んでいった……
 そのころはせわしない日々が続いていた。仕事の日は食事もとらず、労働のうちに過ぎていた。多くの兵士やコサックたちがいた。ときおり道端で殺されていた。
 その道は長かった、けれどもなぜかプストロスリョーフはそのことを気にも留めなかった。ついに彼が気が付いた時には、木造の古い家の中庭に立っていた。門の下には外灯がともっていたが、その方向をずっと見ていれば、中庭はいっそう暗くなり寒さを増していただろう。プストロスリョーフ一人きりだった。待っていた。誰かが静かに、そして軽やかに彼のそばをすり抜けて行き、姿を消した。
 「どこへ行くんだ?」プストロスリョーフは尋ねた。
 そしてもうそのあとには門番の姿が見えた。若く、背の高い、やつれた青年で、赤くごわごわした髪をしていて、それがあまりに多いせいで、まるでニット帽を持ち上げているみたいだった。
 「どなたにご用で?」風邪をひいているような気だるい声で尋ねてきた。
 プストロスリョーフは名字を伝えた、――それがふと頭に浮かんで来た気がしたからだ。
 「エリザーロフはここに?」
 「でしたら、あそこの階段で、4階です」門番が答えた。
 まるで夢であるかのように、プストロスリョーフの前を恐ろしい印象が通り過ぎて言った。悪臭を放つ部屋、気が滅入るほど多くの飢えた様子の人々。イコン画の下には、――死んだ女がいた。男の子は、その女の息子だ。吐き気を催すほど、汚らしく、醜く、恐ろしくも奇妙なほど毎夜プストロスリョーフのもとにやってくる子に似ていた。
 男の子はひとりきりだった。両親はいなかった。プストロスリョーフはその子を引っぱっていった。食い入るような、飢えた目が、男の子を連れているあいだ、彼を見つめていた。
 そしてこれらすべてのことが瞬く間に過ぎ去って、これらすべてのことがプストロスリョーフには夢の中のように思えた。
 ナターシャという、礼儀正しく厳格な召使いは、怒ったように顔をしかめた、プストロスリョーフが男の子を連れて来たことや、その世話をしなければならないと言ったせいだ。
 「2時間でも綺麗にゃなりませんよ」と彼女は愚痴をこぼした。
 翌朝プストロスリョーフが男の子のために注文した白い服、それは彼が見た謎めいたお客さんが着ていたのと同じものだった。
 支払いは値切りもせずに、気前もよく、祭日前の急ぎのことにもかかわらず、服は晩までには仕上がっていた。
 そして夜、入念に体を洗い、散髪もし、ほっそりとして色白で、黒い瞳を煌めかせ、短い白い服を身につけ、下は生足で、靴も履かないままの少年がゆっくりプストロスリョーフの方へ近づいてくると、プストロスリョーフは空恐ろしくなった、――この男の子が毎夜やって来ていた謎めいたあの子にあまりにそっくりだったから。
 「おまえはどこから来たんだい、グリーシャ?」プストロスリョーフは尋ねた。
 男の子はぎこちなく肩を震わせ、細く小さな指で服のシワを引っ張って、こう答えた。
 「工場だよ」
 少しの沈黙があった。その後、子供っぽく泣き出しそうになって言った。
 「朝ナターシャと一緒に出かけて、ママを埋めたの。パパは夏に死んじゃって、もうママも死んじゃった、――いっそ倒れて死んじゃいたい」
 「今からお前は私の子だ」プストロスリョーフは言った。
 男の子は少し黙って、目を伏せると、小さな声でささやいた。
 「ありがとう」
 男の子はおとなしかったが、おどおどしてはいなかった。彼はよその人に人見知りをして、誰かがやってくれば、逃げようとしていた、けれども引き止められたりした時は、率直かつ簡潔に質問に答えて、いにしえの生き物のようにどっしりと落ち着き払っていた。
 祭日が近づいていた。プストロスリョーフはグリー者のためにツリーを用意した。子供たちも呼んだ。10人ほどの小さなお客さんたちが、貧富の別なくやって来ていた。陽気でにぎやかだった。プストロスリョーフはグリーシャが笑っているのがうれしかった、けれどその注意深く、あまりに黒く、あまりに奥深い瞳を見つめるのは恐ろしかった。
 翌朝彼はたずねた。
 「グリーシャ、どうだい、昨日のツリーは気に入ったかい?」
 グリーシャはいつものクセで、少し黙って、服のシワを引っ張り、そのあと異様に落ち着き払った声で言った。
 「ツリーは――とってもよかった。素敵だった。でも子供たちは嫌だった」
 「何が嫌だったんだい?」驚いてプストロスリョーフは尋ねた。
 グリーシャは生き生きと語り出した。
 「あたりまえだよ、――みんな自分は違うって思ってるんだ。お金持ちの子は見下すようだし、貧乏の子は妬みっぽくて、みんながみんな妬みあって、そうしてみんな目をたぎらせてるんだ。いくら言っても言い足りないぐらいだよ。本当に、妬みあってるんだ」
 プストロスリョーフは頻繁にグリーシャと話をした。毎夜。そしていつもプストロスリョーフは自分のもとにグリーシャを呼び寄せる時、その子から何か奇妙で恐ろしい言葉が出てくるのを期待しつつも怯えているような恐怖があった。
 「グリーシャは知っているだろうか、夜にあった出来事を?」時おりプストロスリョーフは考えるのだった。「聞いてみるべきではないのか?しかしどう聞くんだ?」
 そしてとうとう尋ねてみた。
 「グリーシャ、君は以前にうちに来たことはあるかい?」
 男の子の顔はひときわ青ざめて、まるで急に驚いたようだった。おどおどして囁いた。
 「どうして知ってるの?」
 プストロスリョーフは目を閉じた。彼の頭の中はひどく苦しいほど混乱していた。
 グリーシャは話しつづけた。
 「僕来たことあるよ。夢の中で。僕が見たのは、旦那さんのような人が机に向かって座って、じっくりと考え事をしていたの。けど顔は見えなかった。まるでのっぺらぼうみたいに見えたんだ。でもそれだけじゃはきりしない。今になってわかったけど、――この家のものみんな、机も、ランプも、みんなこんな風だった」
 「グリーシャ、なぜこの家にやって来たんだい?」
 グリーシャはため息をついた。
 「こうだよ」グリーシャは語った。「旦那のような人が座っているのが見えたけど、顔は見えなかった。それで僕はこう言ったの。『旦那さん、ねえ旦那さん、僕たちは一生一人で飢えているのも悪くないよ。一緒に死のうよ』。けれど旦那さんは何も言わないの。ずっと考え事をしてるの。それで、僕は帰ったの。その後でママは死んじゃった。それからあなたが僕を連れて来たの」
 「グリーシャどうして君は私を呼んだんだい?」滅入った様子でプストロスリョーフは尋ねた。
 グリーシャは笑い出した。夜の時みたいに。あの時の震える急かしたような笑い声だった。まるで急かした泣き声のようだった。あまりに明瞭で、あまりに陰気だった。
 「でもどうして?」熱っぽくグリーシャはしゃべりだした。「どうしてそう思うの?なぜなの、教えてよ、なんのためにぼくたちは犬みたいな生活をしなくちゃいけないの?一体なんのためにぼくたちは地上に暮らして、お互いをいつも傷つけあってるの?なんのために?それに一人が暴力をふるうなら、みんなひたすら耐え続けなくちゃいけないの?」
 プストロスリョーフは黒い、燃えるようなグリーシャの瞳を見て、青白く、痩せた、とても美しい顔を見た。空恐ろしかった。それでもグリーシャは話し続けていた。
 「みんなで一緒に行けば、新しい大地、新しい空にたどり着いて、そこでは凶暴なライオンにかぶりつかれることもないし、蛇も噛み付いたりしないだろうに。もうぼくたちに自由はないから、どこにも行けやしないよ」
 「グリーシャ、どこでそんな言葉を覚えたんだ?」
 彼はこの暗い誘惑を打ち消したかった、それが長いあいだ彼を自らの領域のうちに捉えていたのだ。
 グリーシャはほんのり赤くなった。
 「たぶん、僕はバカなことを言ってるんだ。わからないよ。人は人から聞いたことを、自分でも考えつくものでしょう。あなたは自分が貴族だと思ってるけど、あなただけがそう思っているの?僕も考え事は好きだよ。今あなたに話してあげる」
 グリーシャは沈黙した。
 「グリーシャ、話しておくれ」
 「もし僕があらゆることをみんな知っていたら、人間になろうだなんて思わない」

 何度となくこのように奇妙で子供らしくもない話をした。翌朝プストロスリョーフは思った、この話をしたのはグリーシャじゃなく、あの言葉たちはすべて夜半のまどろみの中、問いつづけても答えを見つけられないために疲れ切った人のまどろみの中で夢を見ていたんだと。
 それにグリーシャ自身も昼間は素朴で普通の男の子になっていて、いかにも単純な子供じみた思いつきや興味を抱いていた。ただとても物静かでつつましく、とてもやせているだけだった。そして今は亡き両親を思い出す時は、時おり涙を見せていた。工場で働いていた二人のことを話す時には、悲しげで暗い表情で、震え出して、静かにその場を離れた。
 母親の棺のそばでは、髪もくしゃくしゃに乱れ醜いほどだった。しかし実際にはむしろ美しかった。あまりにやせ細っているだけだった。
 そして素晴らしいのは、彼には嫌悪感を催すような癖が少ないことだった。もしくは、ひょっとするとそれは、彼が物静かで注意深く、その場ですべきでないことにすぐ気がつくからかもしれない。
 大祭日が近づいていた。快い自由の息吹が我が祖国の街や名もない村々の上に漂っていた。激しい怒りが高まって、その荒々しい呼吸のうちにやわらかな希望がぬくもりを帯びていたが、それは長いあいだ無関心で無慈悲な雪の下に身をひそめていた。
 グリーシャは夜にプストロスリョーフのもとへやって来た。どうやら、何かを伝えたいらしかった。
 「グリーシャ、どうしたんだい?」プストロスリョーフは尋ねた。甲高い、決然とした声で話した。
 「僕たちはあした出て行きます。僕も行きます」
 プストロスリョーフは驚いた。
 「グリーシャ、どこへ行くんだ?なんて馬鹿げたことを!」腹を立てて彼は叫び声をあげた。「そこで何をするというんだ、こんな小さなおまえが?」
 グリーシャの瞳は燃え上がり、頬は紅潮した。
 「行くんだ」静かに、けれど決然と彼は言った。
 プストロスリョーフは問い詰めても無意味だと悟った。
 「グリーシャ」なだめるように言った。「朝は夜よりも賢い、だ。このことは明日しっかり話をしよう。――今はもうおやすみの時間だろう?」
 グリーシャははにかんだ笑みを浮かべた。
 「おやすみはあっちからやってくるよ」彼は言った。「でもどんなおやすみがあるの?白いのはまだ先にあるし、緑色のは早くって、灰色のは嫌だし、黒いのはあなたが放ってはおかない、――どんなおやすみがあるっていうの?あるのは赤色だけだよ」
  恐ろしく、容赦のない一日が、凍えた不気味な街のうえに立ち上って来た。群衆は武器を持たず、武装した人々は殺戮を行なっていた。恐怖が首都に蔓延していた。
 プストロスリョーフは朝早くに家を出た。グリーシャのことは忘れていた。面会と面倒ごとにかかりきりになっていた。
 そして突然、群衆の話し声の中の言葉がふと耳に入った。
 「たくさんの子どもたちが……」
 たちまちに思い出した。恐ろしくなった。家に帰った。馬車を急かしに急かした。そしてその恐ろしさと重苦しさは、まさに取り返しのつかない不幸な出来事が起こった時のようだった。
 家に着くと――ナターシャの顔があり、目を泳がせて、どうでもいいことを口ばしった。
 「ああ、アンドレイ・パーヴロヴィチ、外では何が起こってるんですの?」
 「グリーシャはどこだ?」プストロスリョーフは叫んだ。
 ナターシャはうろたえた。顔が赤くなった。泣き出した。
 「昨晩の言いつけどおり、コートも長靴もみんなクローゼットにしまったんです。けどどうやってかあの子は鍵を見つけたみたいで、見当もつきません。それにとっても静かだったんです。とても静かで。ちょっとのあいだ出かけて、戻ってきたら、グリーシャはいなかったんです。服を着てからどうやって姿を消したんでしょう?見当もつきませんわ」
 プストロスリョーフはふたたび通りへ出た。馬車乗り場で立ち止まった。どこへ行こう?
 ずっと同じ方向へ進んでいた。急ぎつつ、身を守るように。赤毛のひげをたくわえた若者が、労働服に眼鏡姿で話をしていた。
 「やつは何を持って我らを迎えたか!武力と銃弾だ」
 門番や商売人たちの群がりから意地の悪い話が聞こえた。
 「学生だ。変装してやがる」
 なにやら羊皮の帽子をかぶった若者が足早に駆けて叫んでいた。
 「同志たちよ、回り込まれたぞ!」
 彼らは駆け出した。
 騎兵隊があらわれた。彼らはゆっくりと進んでいた。四つ辻に労働者の一群が集まった。叫び声が聞こえた。兵士めがけて空き瓶が宙を舞った。二人の騎馬兵が隊列から離れた。無様に剣を振り回していた。群衆は散り散りになった。
 プストロスリョーフは脇道へそれた。どこかへ向かって歩いていた。急ぎ足で、人をかき分け運まかせに町の中心を目指して進んでいた。どこもかしこも通り抜けることができなかった、――列をなした兵士たちが立ちふさがり、通してもらえなかった。
 喧騒、群衆、コサックたち、時計の音、――それらすべてが意識の脇をすり抜けていった。プストロスリョーフ、自分を待つ人たちのことも、自分の仕事のことも忘れていた、――グリーシャのことだけが頭の中で延々と繰り返し浮かんで来て苦しかった。すると突然グリーシャが目に入って来た。男の子がそばを走り抜け、極寒に晒されおぞましいほど青白くなっていた。プストロスリョーフに向かって叫んだ。
 「行こう、僕について来て」
 青白い顔の黒い瞳が、一瞬の稲妻のように、疲れ切ったプストロスリョーフの眼差しの前で閃いた。そしてその瞬間に鋭いラッパの音が街中の喧騒の中に響きわたった。
 「グリーシャ、帰るんだ!」プストロスリョーフは叫んだ。
 人々がそばを駆けていき、叫び声をあげていた。たくさんの恐怖に歪んだ顔が目に入った。通りから人が消えた。
 そしてふたたびグリーシャがいた。プストロスリョーフの方へ近づいて来た。
 「どうしてみんな走っているの?何を怖がってるの?」そう尋ねる声は、かん高くひびいて、ふるえていた。
 あまりに青白く、瞳はあまりに輝いていた。
 プストロスリョーフは彼の肩をつかんで言った。
 「坊や、うちへ帰ろう。ここにいる必要はない。みんな殺し合っているんだ」
 グリーシャは笑い出した、――夜中の男の子と同じように。
 プストロスリョーフがグリーシャを見る瞳には当惑と憂いが込められていた。白く、輝きを放ち、夜のお客さんそのままに、男の子は話した。
 「殺し合えばいいさ。おびえているの?一緒に死のうよ。こんなひどい人間たちと生きる価値はないよ。僕はこの人たちといたくはないよ」
 突然どこか奇妙なほど近くで聞こえてきたのは、数多の馬の唸り声と足音だった。騎馬隊がゆっくりと一定の足どりで近づいて来た。あぶく汗をかいた馬の顔はすぐそばで、不思議なほど優しくおだやかで、いつもと変わらなかった、――しかしその上で揺れていたのは、猛り狂った間抜け顔だった。
 そして一糸乱れぬ隊列の唸り声と足音の上で不意にかん高い叫び声が響きわたった。
 「死刑執行人どもめ!」
 グリーシャはプストロスリョーフの手を振りほどき、かん高く叫び、騎馬隊めがけて駆けていった。白い、残酷な微笑みが輝き、空に長い鋼鉄の条が閃光を放った、――将校がグリーシャに手を下したのだった。
 子供の亡骸の上を颯爽と騎馬隊が駆けていった。

 小さなボロボロの屍は埋葬された。プストロスリョーフは生き残った、――疲れ切って、喜びもなく、仕事のための毎日の労働の忙しなさに飲み込まれ、――勤労は業績につながったが、それでも未だ大きな喜びはなかった。
 しかし時は流れ、彼は待っていた。大祭日が近づいていた。ふたたび光を放ったクリスマスの男の子がやって来た。
 すでに何度もなんどもやって来ては、静かに、問いかけるように、あたたかい微笑みに照らされて、――独りの夜のしじまの中で近づいて来て、プストロスリョーフの疲れ切った顔を覗き込んだ。
 そしてふたたびプストロスリョーフはその子の静かな、延々と続く囁きを耳にした。
 「僕の望みだよ。あの人たちと行くんだ、――だからあなたも僕と行こうよ、新しい世界へ、この朧げな、けれども確かに存在する扉の向こう側へ」
 そしてプストロスリョーフは分かっていた、彼はもはやグリーシャを一人にはしないことを、――一緒に、その後について行くのだと。そしてささやいた。
 「坊や!どこにいるんだい?誰なんだい?」
 すると聞こえてきた。
 「そばに行くよ。一緒に行こう」
 そして繰り返した。
 「一緒に死のう」


初出:1905年12月26日、27日

出典: Собрание сочнение в шести томах. Т. 1. М. НПК <<Интелвак>>, 2000, сс. 631-644.

www.fsologub.ru



ひとこと:
ソログープは20世紀初頭のロシア象徴主義の代表的な作家の一人です。主に厭世的で死を礼賛する内容が多く、登場人物が死ぬことにより救われる作品を多く書いています。

 

 

老婆 / イワン・ブーニン

 この愚かしい田舎の老婆は台所の板椅子に腰掛けて川のように涙を流して、泣いていた。
 クリスマスの吹雪が、雪の積もった屋根や雪に埋もれた街路に旋風となって駆け回り、ぼんやりと青みがかり、薄暮時に満たされだすと、家の中は暗くなった。
 向こうの大広間では、行儀よく肘掛け椅子が囲むテーブルにビロードのクロスが掛られ、ソファーの上には褪せた輝きを放つ絵画がある--緑がかった月の光輪が雲の中にあり、鬱蒼としたリトアニアの森、三頭立ての馬車、ソリ、そこから薔薇色の光線を撃ち放つ猟師たち、そしてソリの奥に宙返りするオオカミたちがいる。部屋の一角には木鉢から天井にまで枝を広げて枯葉をつけた熱帯樹の枯れ木があり、もう一方にある漏斗のように口を開けた蓄音器は、夜になると活気づき、お客がそばにいる時には、そこから絶望したフリをした誰かのしゃがれ声が喚いていた。「ああ、つらい、つらいぞ、神よ、一人の妻と始終暮らすは!」台所では、窓台に置かれた濡れたボロ切れから水が滴り落ち、オイルクロスに覆われた鳥籠の中で眠る、羽の下に頭を埋めた熱帯地域の小鳥は、--浅い眠りと、この地のクリスマスに慣れていないせいで、悲しみがいやますばかりだった。食堂の隣の狭い部屋でぐっすりと、いびきを立てて眠る間借り人である初老の独身者は、下級中学の教師で、授業では子供たちの髪を引っ張っる一方、家では熱心に長大で、長年にわたる著作『世界文学における鎖に繋がれたプロメテウスの類型』に取り組んでいた。寝室で眠る主人たちはディナーでのひどい騒ぎがあとでうなされていた。一方老婆は暗くなってゆく台所で板椅子に座り苦い涙をこぼしていた。
 ディナーでの騒ぎはまたしても老婆が発端だった!女主人は長年の嫉妬心を恥ずべきだったが、嫉妬に狂い、ついに自分勝手に物事を決めて--料理女に老婆を雇ったのだった。主人は、もうずいぶん前から白髪を染めていたにも関わらず、考えるのは女のことばかりで、老婆を葬ろうと決意した。そして実際、老婆はあまりに醜かった。背は高く、腰は折れ、肩幅は狭く、耳は遠いし目は悪く、おどおどするせいで要領を得ず、料理の方も、精魂込めているにも関わらず、まずくて食えたものじゃなかった。彼女は一歩踏み出すごとに震え、気に入ってもらうために力を使い果たしていた……。彼女の過去は楽しいものではなかった。そう、当然ながら、夫は悪党の酒飲みで、彼の死後は見ず知らずの土地で物乞いをして、長年にわたって飢え、寒さ、寄る辺なさに苛まれた……。だから当然老婆は幸福だった、再び人並みになったのだから--腹も満たされ、暖かく、靴も履き、服も着て、役人のもとで働いているのだから!彼女はどんなに祈ったことだろう、眠る前に、台所の床にひざまづき、全身全霊を神様にささげて慈悲をかけてくださることを、そしてどんなに祈っただろう、思いがけず与えられたこれほどの慈悲を神様が彼女から取り上げてしまわないことを!しかし主人は彼女をしきりに罵って、このディナーの席でも怒鳴りつけ、彼女の手足はすくみ、シチーの入ったスープ皿が床に落ちてしまった。それもよりにもよって主人夫婦の間に!ディナー中、ずっとプロメテウスのことを考えていた教師でさえ、たまりかねて、猪のような目を脇へ逸らしてこぼした。
 「喧嘩はやめてください、紳士淑女たるみなさん、厳粛なる祭日なんですから!」
 家の中は静まりかえり、平穏が訪れた。外では雪煙が青みがかり、雪溜まりが屋根より高く吹き寄せられ、門とくぐり戸はふさがってしまった……。青白く、耳の大きい、フェルトの長靴を履いた少年で、孤児であり、主人たちの甥っ子が、台所の隣にある自分の小部屋の濡れた窓台に向かって座り、長いこと課題をこなしていた。彼は勤勉な少年で、クリスマス休暇に課された課題を空で復唱することを決めていた。自分の養育者であり恩人たちをがっかりさせたくなかったし、彼らを喜ばせ、祖国の役に立つために、一生懸命覚えていた、2500年前にギリシア人(人々は概して穏やかで、朝から晩まで総出で劇場での悲劇に参加して生贄の儀式を執り行い、余暇には神託を求めた)がある時ペルシア国王との戦争で女神アテナの力を借りて粉砕し、文明化の道を辿りさらにその先にも行けたであろう、もしも軟弱にならず、放蕩に耽ることなく、実際そうだったように、滅びるようなことがなければ、それもあらゆる古代の民族たちを道連れにしなければ、度を越して異教と贅沢に溺れることがなければ、ということを。覚えてしまうと、本を閉じてずっと爪で窓ガラスの氷を引っ掻いていた。そのあと起き上がり、そっと台所のドアへ近づいて、ドアの中を覗き込むと--また全く同じ光景があった。台所の中は静かで薄暗く、1ルーブルの壁時計は、秒針が動かず、いつも12時15分を指し、異常なほどはっきりとせっかちにチクタク鳴り、子ブタは、冬を台所で過ごし、ペチカのそばに立ち、目まで浸かるほど顔をまずい料理の入ったタライに突っ込み、ほじくっていた……老婆の方は座って泣いて、裾で顔をぬぐい--そして川のように流れていた!
 彼女はまた泣いていた--ランプに火をつけて床で切れ味の悪い包丁を使って松の木端をサモワール用に割ってからも。夕べになっても泣いていた、サモワールを主人たちの食堂に出した後でやってきた客に扉を開けてやったあとに、--それと同じ頃、暗い、雪の積もった通りを吹雪が吹き付ける遠くの街灯の向かってどうにか進む、ボロ切れの服の見張り番がいた、その息子である4人の若い男たちはみな、随分前にドイツ人の機関銃で撃ち殺された、その時見晴らしの悪い草原では、悪臭を放って立ち並ぶ小屋の中、女、年寄り、子供、雌羊たちが眠ろうとしていた。一方遠く首都の方ではまさに溢れんばかりの海の如き歓喜の酒盛りで、高級レストランでは金持ちの客たちが、水差しからオレンジ入りの安酒を飲むのが楽しいといったフリをして、水差し1つに75ルーブルを払っており、また地下にある、キャバレーと呼ばれる酒場では、コカインを吸い、時にはもっと人を呼ぶために、色を塗った顔を手当たり次第に殴り合う若者たちがおり、彼らは未来派、つまり未来の人間のフリをして、とある講堂では詩人のフリをした召使いが、エレベーターや、伯爵夫人や、車や、パイナップルにまつわる自作の詩を朗読し、とある劇場ではボール紙製の御影石をなにやら上の方へよじ登る頭が禿げきった何者かが、門のようなものを開けてくれとしつこく誰かにせがみ、別の劇場のステージに現れたのは、蹄で床を鳴らす年老いた白馬にまたがり、そして、手を紙製の甲冑に当てきっかり15分間を2000ルーブルのために歌う古代ルーシの王を装った大名手だったが、その一方で500人の鏡のように禿げた男たちがオペラグラスで凝視していた女性合唱団は、大声で歌い遠征に出る王を見送り、男たちと同じ数の装いを凝らしたご婦人方がボックス席でチョコレート菓子を頬ばり、3つ目の劇場では太って病気になった老人老婆がお互いに怒って足を踏み鳴らし、はるか昔に消え去ったモスクワ川対岸の商人とその妻のフリをして、4つ目の劇場では痩せた乙女と若者たちが、丸裸となってガラスでできた一房のぶどうを頭に載せ、熱烈に互いを追いかけ回し、なにやらサテュロスとニンフのフリをしていた……。要するに、ある者たちは見張り番をする一方、他の者たちは寝床に入ったりあるいは楽しみに打ち興じ、涙を流して泣いていた愚かな老婆の耳には、しゃがれた、絶望したフリをした叫び声が、彼女の主人の客間から流れてくるのだった。

    「ああ、つらい、つらいぞ、神よ、
     一人の妻と始終暮らすは!」

 

初出:1916年

出典: И. А. Бунин : Собрание сочинений. В 6-ти т. Т. 4, М. <<Художественная литература>>, 1988, с.144-147.

bunin-lit.ru

 

ひとこと:
革命の前の年に書かれた、帝政ロシア期最後のブーニン作のクリスマス物語です。
恩師への哀悼の意とともに。

 

 

 

掃除番のマロースじいさん / ダニイル・ハルムス

シューバ*1に、帽子、ちゃんちゃんこを着て
掃除番がパイプをふかす。
そして、ベンチに腰掛けて
掃除番が雪に話す。

「おまえは飛んでる、それとも溶けてる?
何ひとつだってわかっちゃいない!
はき掃除して、かき掃除して、
ただわけもなく吹雪いてる!
一体誰に話してるんだ?
座ってパイプをふかすのさ」

掃除番はパイプを吸い、吸い……
目は雪のせいで細まって、
ため息ついて、あくびして
思いがけずに眠りこむ。

「ごらんよ、マーニャ!」と叫んだワーニャ
「見えるか、乞食がおすわりをして
真っ黒お目めで
自分の箒を見つめているぞ

まるで雪ばあさんみたい
それともただのマロースじいさん*2
そうだ、帽子をぶん殴れ
鼻っ柱をひっつかめ!」

そいつは突然唸りだし
突然足を踏み鳴らし
ベンチから立つと
ロシア語で叫んだ
「マロースが目に物見せてやるぞーー
おいらの鼻をつかもんなら!」

 

初出:1940年

出典:Даниил Хармс. Дворник Дед Мороз. // Проза и сценки. Пьесы. Стихотворения. М. 2010.

 

www.culture.ru

*1:毛皮のコート

*2:ジェド・マロース。ジェドは「おじいさん」、マロースは「寒波」の意。ロシアにおけるサンタクロース的存在で、クリスマス・シーズンにプレゼントを届けてくれる。

クリスマスの夜に / アントン・チェーホフ

 若い女で年は23といったところか、ひどく蒼白い顔で海岸に立ち、遠くを見つめていた。ビロードのブーツを履いたその小さな足もとから、下の海へ古びた狭い梯子が伸びており、ひどくぐらつく手すりがひとつ付いていた。
 女が見つめる遠くで口を開いているのは、深い、見通せないほどの闇に満たされた空間だった。星も、雪に覆われた海も、火も見えなかった。強い雨が降っていた。
 『あそこで何が起こってるのかしら』--女はそう考えて、遠くをじっと見入りながら、風と雨のせいで濡れそぼった毛皮のコートとショールに身をくるんでいた。
  どこか向こうの方、この見通せないほどの暗闇の中、5キロ--10キロあるいはもっと遠くでは、きっとこの瞬間も彼女の夫である、地主のリトヴィーノフが、かれの漁業組合の人たちと一緒にいるのだ。海の水位が上がって、どうやら、じきに氷が割れるということだった。氷はこの風に耐えられないのだ。彼らの乗るボロボロの袖網を積んだ鈍く動きの悪い漁業用のソリは、蒼白の女の耳に目覚めた海の咆哮が届く前に、岸まで辿りつくだろうか?
 女はどうしても下へ降りて行きたくなった。手すりが手元でぐらついて、濡れてべたべたしたせいで、手から滑って、まるでドジョウのようだった。段々にしゃがみこんで、四つん這いで降りはじめ、ぎゅっと両手で冷たく汚い段々を握りしめていた。風が出てきて、毛皮のコートをまくりあげた。胸元に湿気が吹きつけた。
 「聖者ニコライ様、この梯子は底なしです!」若い女はそう囁いて、段々をたぐり降りていた。
 梯子はちょうど90段あった。曲がることなく、下にまっすぐと、直角で垂直に伸びていた。風が意地悪く彼女を右に左に揺すぶると、彼女はヒビが入りそうな板みたいに軋むような声をあげた。
 10分後には女はもう下の海辺にいた。そしてこの下は真っ暗闇だった。風もここでは上の時より意地悪さを増していた。雨が降りしきり、なんだか止むことがないように思えた。
 「だれがそこにいるの?」聞こえてきたのは男の声だった。
 「わしだよ、デニスだ……」
 デニスという、背が高く頑強で白い頰ひげを生やした老人が、岸辺に立って、大きな杖をつき、やはり見通すことのできない遠くの方を見つめていた。彼は立ちどまって、着ている服の乾いたところを探しながら、そこでマッチを擦ってパイプを吸おうとしていた。
 「あんたは、地主の奥さんのナターリヤ・セルゲーエヴナかい?」いぶかしそうな声で彼が聞いてきた。「それでこんなところでどうなさった?子供を産んだばかりの身体じゃ風邪ひいたら、まっさきに死んでしまうぞ。お帰んなさい、おっかさん、自分の家に!」
 老婆の泣き声が聞こえた。泣いていたのは漁師のエフセイの母親で、彼はリトヴィーノフと漁に出ていたのだった。デニスはため息をついて諦めたように手を一振りした。
 「あんたは生きて来たんだろう、ばあさん」彼は誰にともなく言った「70年もこの世でさあ。そのくせ小さな赤ん坊みたいに、ものわかりが悪いんだ。どんなこともよう、あんぽんたんよ、神様の御心さ!あんたみたいに年をとった弱い体じゃペチカの上で寝とくもんだ、びしょ濡れでいちゃいけねぇ!ほら行くんだ!」
 「だって私のエフセイじゃないか、エフセイや!わたしにゃたった一人なんだよ、デニス爺さん!」
 「神様の御心さ!あいつの運命が、なあ、海で死ぬようになってなけりゃ、100回割れたって、あいつは生きのびるさ。しかしもしよ、おっかさん、ここで死を受け入れる運命なら、わしらには決めることはできんのだよ。泣くんじゃない、ばあさん!エフセイだけが海にいるんじゃねえ!あそこにゃ地主のアンドレイ・ペトローヴィチもいる。あそこにはフェージャも、クージマも、タラセンコフのアリョーシュカもいるんだぞ」
 「ねえあの人たちは生きてるの、デニス爺さん?」ナターリヤ・セルゲーエヴナが震える声で聞いた。
 「いったい誰が知るもんかね、奥さま!昨日か3日目に吹雪に埋められてなけりゃ、そんときは、それなら、生きとるだろう。海が割れたりしなけりゃ、生きとるでしょう。おや、なんて風だい。ひどいくらいだ、助かりゃいいが!」
 「誰かが氷の上を歩いてる!」突然そう発した若い女の声は不自然なほどしゃがれていて、まさに怯えながら、前に進んだ。
 デニスは目を細めて耳を澄ました。
 「いいや、奥さま、誰も歩いとらんよ」かれは言った。「ありゃあボートに馬鹿のペトルーシャが乗ってオールを漕いでいるんだ。ペトルーシャよ!」デニスは叫んだ。「おるのか?」
 「いるよ、じいさん!」弱々しく、病的な声がした。
 「痛むのか?」
 「痛むよ、じいさん!もうだめだ!」
 岸辺の、氷のすぐそばにボートが浮いていた。ボートの底にいたのは背の高い若者で、醜いほど手足が長かった。それが馬鹿のペトルーシャだった。歯を食いしばって全身を震わせながら、彼は暗い遠方を見て、それから熱心に何かを見分けようとしていた。何かが海から起こるのを期待していた。長い両腕はオールをつかんでいたが、左足は体の下に折り曲げていた。
 「病気なんだようちの馬鹿は!」デニスはそう言って、ボートの方に向かっていた。「足が痛むのさ、かわいそうに。あいつが分別を無くしとるのも痛みのせいだ。お前よう、ペトルーシャ、あったかいところへ行かねえか!ここじゃもっとひどい風邪をひいちまうぞ……」
 ペトルーシャは黙っていた。痛みに身震いして顔をしかめた。痛むのは左の太ももの、後ろ側で、そこはちょうど神経が通っている所だった。
 「行くんだ、ペトルーシャ!」デニスはやわらかな、父親の声で言った。「ペチカで横になれば、ご加護があって、朝の礼拝までには足もよくなっとるさ!」
 「感じるぞ!」ペトルーシャは口を開けてつぶやいた。
 「なにを感じるんだ、馬鹿や?」
 「氷が割れたんだ」
 「どうしてわかるんだ?」
 「そんな音が聞こえたんだ。ひとつは風に乗って、もうひとつは水を伝って。それからまたひとつ風が吹いたぞ、柔らかくなってさ。こっから10キロも先じゃあもう割れてるんだ」
 老人は耳を澄ました。長々と聞いてみても、一帯のざわめきのなかでは何も判別できず、ただうなる風と単調な雨の打つ音がするだけだった。
 半時間が期待と沈黙のうちに過ぎ去った。風は自分のなすべきことをしていた。さらにいっそう強さを増して、どうやら、なにがなんでも氷を割って婆さんから息子のエフセイを、そして青ざめた妻から夫を奪ってやろうとしているかのようだった。雨はその間にどんどん弱まっていった。すぐにまばらになると、もう暗闇の中にも人影やボートのシルエット、雪の白さを見分けることができた。風の唸りの中から音が聞こえた。鳴っていたのは上の、漁師の村にある、古びた鐘だった。吹雪に、それから雨に捕らえられた人たちが、目指して進むにちがいないこの音は--溺れる者が掴む藁なのだ。
 「じいさん、水はもう近いぞ!聞こえるだろ?」
 爺さんは耳を澄ました。今度は彼にも唸りが聞こえたが、それは吠える風ともざわめく木々とも違っていた。馬鹿は正しかった。もはや疑う余地もなく、リトヴィーノフと漁師たちは陸に帰ってきてクリスマスを祝うことはないのだった。
 「おしまいだ!」デニスが言った。「割れたんだ!」
 老婆は金切り声をあげて地面にうずくまった。地主の妻は、濡れて寒さに震えながら、ボートに近寄って聞き耳を立てた。そして不気味な唸る音が聞こえた。
 「きっと、これは風よ!」彼女は言った。「まさか信じてるの、デニス、氷が割れたなんて?」
 「神の御心なんです!……われらの罪ゆえです、奥さま……」
 デニスはため息をついて、優しい声で付け足した。
 「上におあがりなさい、奥さま!そんなにずぶ濡れになってしまって!」
 そして岸辺に立つ人々が耳にしたのはちいさな笑い声だった、子供のような、幸せそうな……。笑っていたのは青ざめた女だった。デニスは喉を鳴らした。彼は泣きたい気分の時にいつも喉を鳴らすのだった。
 「気が狂っちまった!」彼は男の黒い影につぶやいた。
 あたりが明るくなった。月が顔をのぞかせたのだ。今なら全てが見通せた、半分だけ雪の溶けた海や、地主の妻や、デニスや、馬鹿のペトルーシャが耐え難い痛みに顔をしかめるのも。傍らでは百姓たちが立っていて、何のためだか手にはロープを握っていた。
 明らかに最初の割れる音が岸からほど遠からぬ所で響いた。すぐに二つ、三つと響きわたって、あたりには恐ろしいほどの割れる音が鳴り響いた。白い、果てしなく大きな塊が身を揺すりだし、暗くなった。怪物が目を覚まし、その荒れ狂う生命活動を始めたのだった。
 吠える風も、ざわめく木々も、ペトルーシャのうめき声も、鐘の音も--全てが海の唸りの陰で鳴り止んだ。
 「上に逃げるんだ!」デニスが叫んだ。「今に岸も水浸しになって氷に覆われちまう。それに朝の礼拝ももうはじまるぞ、お前たち!お行きなさい、奥さんよ!神様もそう望んでらっしゃるよ!」
 デニスはナターリア・セルゲーエヴナに近づいて用心して彼女の肘をつかんだ……
 「行きましょう、おかっさんや!」そう言うかれの声は優しく、思いやりに満ちていた。
 地主の妻はデニスの手を払い、はつらつとして頭をあげると、梯子の方へ向かった。彼女はもはやひどく青ざめた顔をしてはおらず、頬は健康的な赤みが踊り、まさに彼女の肉体に新鮮な血が注がれたかのようで、見つめる瞳はもはや泣いてはおらず、胸元でショールを握る両手も、さっきみたいには震えていなかった……。今では、他人の助けがなくとも、自分で高い梯子を登っていける気がした……。
 三段目に足をかけた時、釘付けになったように立ち止まってしまった。彼女の前に、背の高いすらりとした男が大きなブーツと毛皮のハーフコートを着て立っていた……。
 「俺だよナターシャ……怖がらなくていい!」そう言ったのは夫だった。
 ナターリヤ・セルゲーエヴナはふらついた。背の高いキッド毛皮の帽子に、黒い口髭、黒い瞳で、夫で地主のリトヴィーノフだとわかった。夫は彼女の手を引き上げて、頬にキスをし、さらにシェリー酒とコニャックの酒気を吹きかけた。彼は軽く酔っていた。
 「喜べナターシャ!」彼は言った。「俺は雪にも埋もれなかったし、沈みもしなかったぞ。吹雪の時、俺と仲間たちはタガンローグにたどり着いて、そこからおまえのもとに帰ってきたんだ……帰ってきたんだよ……」
 彼は黙り、彼女はふたたび青白い顔で震え、彼を見る目は戸惑いそして驚いていた。彼女は信じられなかった……
 「こんなにずぶ濡れで、震えてるじゃないか!」そうささやくと、彼女を胸に押し寄せた。
 幸福とワインに酔いしれた彼の顔に、やわらかで、子供のように善良な微笑みがこぼれた。彼を待っていたのだ、この寒さの中で、こんな夜中に!これが愛でないのだろうか?そして彼は幸せを感じて笑い出した……。
 鋭い、魂を引き裂くような悲鳴が、静かな、幸福な笑い声に答えた。海の咆哮も、風も、なにもかもその悲鳴をかき消すことはできなかった。顔を絶望に歪ませて、若い女は悲鳴を抑える力もなく、それが外に飛び出てしまった。悲鳴の中からはあらゆることが聞き取れた。意に反した結婚、そして抑えられない夫への嫌悪感、それから孤独への渇き、そしてさらには、崩れ去ってしまった気ままなやもめ暮らしへの希望。彼女の生活の全てが、悲しみも、涙も、痛みも一緒くたとなって悲鳴のうちに溢れ出て、みしみしと音を立てる氷もそれをかき消せなかった。夫はこの悲鳴の意味を理解した、そう、それに理解せずにはいられなかった……
 「つらいってわけだな、俺が雪に埋もれもせず、氷に潰されもしなかったことが!」彼はつぶやいた。
 下唇は震えだし、顔には苦い笑いが広がった。梯子の段を降りて、妻を地面に突き放した。
 「お前の望むようにしてやろうじゃないか!」彼は言った。
 そして、妻に背を向け、ボートの方へ向かって行った。そこでは馬鹿のペトルーシャが、歯を食いしばり、震えながら片足で飛び跳ねて、ボートを水の中へ引っぱっていた。
 「どこへ行くんだ?」リトヴィーノフが尋ねた。
 「痛むんだよ、閣下殿!沈んじまいたいんだ……。死人に痛みはないからな……」
 リトヴィーノフはボートに飛び乗った。馬鹿が後に続いてよじ登った。
 「それじゃあな、ナターシャ!」地主が叫んだ。「好きなようにすればいいさ!受け取れ、待ち望んだ物だ、この寒さのなか立ち通しでよ!達者でな!」
 馬鹿は勢いよくオールを漕ぐと、ボートは大きな氷塊にぶつかってから、大波をめがけて進んでいった。
 「漕げ、ペトルーシャ、漕ぐんだ!」リトヴィーノフが声を出した。「もっと、もっと遠くへ!」 
 リトヴィーノフは、ボートのヘリをつかんで、揺れながらも前をみつめた。ナターシャの姿は見えなくなり、パイプの火も隠れ、ついには岸も消え失せた……
 「帰ってきて!」女の、掠れた声が聞こえた。
 そしてその「帰ってきて」の中に、彼には絶望が聞き取れた。
 「帰ってきてよ!」
 リトヴィーノフの心臓が鼓動を打ち出した……。彼を呼んでいたのは妻で、その時さらに岸の方では教会でクリスマスの朝の祈祷の鐘が鳴り始めた。
 「帰って来てよ!」祈るような同じ声で繰り返した。
 こだまが同じ言葉を繰り返した。いくつもの氷塊が同じ言葉をわめき立て、風がそれを打ち消して、それからクリスマスの鐘も言うのだった。『帰って来てよ!』
 「引き返そう!」リトヴィーノフはそう言って、馬鹿の手を掴んだ。
 しかし馬鹿は耳を貸さなかった。痛みに歯を食いしばり、期待を込めて遠くを見つめ、彼はその長い両手で漕いでいた……。彼にはだれひとり『帰って来て』とは叫ぶことはなく、小さな頃から始まった神経の痛みが、いっそう鋭く突き刺すようだった……。リトヴィーノフは彼の手を掴んでうしろに引っ張ろうとした。けれど手は石のように堅く、簡単にはオールから引きはがすことはできなかった。そう、それに手遅れだった。ボートの方へ巨大な氷塊が迫っていた。この氷の塊がきっと永遠にペトルーシャを痛みから解放したに違いない……
 朝まで青白い顔をした女は海辺に立ち尽くしていた。半ば凍えて、精神的な痛みでヘトヘトになった彼女が、家まで連れられ、ベッドの上に横たえられたときも、そのくちびるはまだずっと囁きつづけていた。『帰って来てよ!』
 クリスマスイブの夜に彼女は自分の夫に愛を抱いたのだった……

1883年

 

出典:

ru.wikisource.org

 

ひとこと
数あるチェーホフのクリスマス物語のうち、最初期の(おそらく最初の)作品。このころはユーモア作家として活動していた時期ですが、この作品はむしろ暗い。単なるユーモア作家じゃなかった様が伺えます。
 

秋の夕べはかくも悲しい / アレクサンドル・ブローク

秋の夕べはかくも悲しい。

目を瞑らせる消えゆく夕焼け……

森は冷たいしじまに眠る、

草地の燻んだ金色の上で。

 

湖は凪いで彼方に霞む

沈思する時の影の中で、

そして全てが凍えている、朧な眠りの冷静の中で、

仄暗い悲しみに覆われて!

 

1898年

 

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出典:

ru.wikisource.org

 

 

 

 

 

日暮れだ / セルゲイ・エセーニン

日暮れだ。露が

イラクサの上できらめいている。

私は路肩に立ち止まり、

柳の木に身を寄せる。

 

月から大きな光が

我が家の屋根に差している。

どこかでサヨナキドリの歌が

遠くの方で聞こえている。

 

心地よくてあたたかい、

冬のペチカのそばのよう。

そして白樺の立ち姿は、

まるで大きなロウソクのよう。

 

そして遠く川の向こう、

森のはずれの奥に見える、

眠たそうな番人が

死んだ音色の拍子木を鳴らす。

 

1910年

 

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